源氏物語~夕顔・若紫~




夕顔~八月十五夜、隈なき月影~

【冒頭部】
八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、のこりなく漏り来て、・・・・・・

【現代語訳】
八月十五日の夜、暗い陰もない(明るい)月光が、隙間の多い板葺きの家にすっかりさしこんで、(源氏は)見なれていらっしゃらない(夕顔の)家の様子も珍しいのに、(その上また)夜明け近くなったのであろう、隣の家々から、身分の低い男たちの声(が聞こえ、それぞれ)目をさまして「まあ、ほんとに寒いなあ。今年は商売にも儲けが少なく、田舎まわりの行商もあてがないから、まことに心細いことだ。北隣さん、お聞きですか。」などと話し合っているのも聞こえてくる。たいそうあわれな、めいめいの仕事のために、起き出してざわざわ音を立てて騒いでいるのも距離が近いから、女はひどく恥ずかしく思っている。風流ぶって気取る女なら、気で失いそうな家の様子であるようだ。けれども、(女は)のんびりしていて、つらいことも、いやなことも、恥ずかしいことも、深く気にしているふうではなく、自分の態度や様子は、たいへん上品であどけなくて、この上なく乱雑な隣の遠慮なさを、どういう意味のことともわかっている様子ではないので、かえって恥ずかしがって赤い顔をしたりするのよりは、罪もなく思われた。ごろごろと、雷よりも大げさに踏み鳴らす唐白の音も、枕もと(でしているのか)と思われる。(源氏は)ああ、やかましいと、この音にはお思いになる。(しかし、源氏は)何の音とも聞いておわかりにならず、まったく変な、不愉快な音だとだけお聞きになる。(この家には、その他)雑然としたことばかり多い。白い着物を(つや出しのために)打つ砧の音も、かすかに、あちらこちらから絶えず聞かれ、空を飛ぶ雁の鳴き声も(聞こえいろいろ)一緒になって堪えきれない(もの哀れな)ことが多い。

【語 句】
八月十五夜・・・秋のなかば 仲秋の名月の夜
隈なき月影・・・暗い陰やくもりがなく明るく照らす月光
板屋・・・屋根を板で葺いた家
のこりなく漏り来て・・・隙間の全部からすっかり月光がはいってきて
見ならひたまはぬ・・・見なれていらっしゃらない
珍しきに・・・珍しいのに(その上また)
暁・・・夜半十二時ごろから日の出まで。
あやしき・・・①身分が卑しい ②粗末な、見苦しい  ここでは①の意
賤の男・・・身分の低い男
なりはひ・・・家業 生業
頼むところすくなく・・・もうかる見込みがなく 期待がうすく
田舎の通ひ・・・地方への行商
思ひかけねば・・・望みがないので あてがないから
北殿こそ・・・北隣さん
あはれなる・・・きのどくな かわいそうな
おのがじし・・・各自 めいめい
営み・・・仕事
そそめき騒ぐ・・・ざわざわと騒ぐ
ほどなきを・・・間近いので
艶だち・・・風流がって 上品ぶって
気色ばむ人は・・・気どるような女は
消えも入りぬべき・・・きっと気でも失いそうな
なめりかし・・・であるようだよ
のどかに・・・のんびり落ちついていて
憂きも・・・苦しいことも 悲しいことも
かたはらいたきことも・・・はたで見ていても気の毒なことも いたたまれないほど恥ずかしいことも
思ひ入れたるさま・・・深く心に思いこんでいる様子
わがもてなし・ありさま・・・自分自身の振る舞いや態度
あてはかに・・・上品に美しく
児めかしく・・・子供っぽく あどけなく
らうがはしき・・・乱雑な 騒々しい
用意なさ・・・気にかけないこと 遠慮のなさ
なかなか・・・かえって むしろ
ごほごほと・・・ごろごろと どすんどすんと
鳴る神・・・雷のこと
おどろおどろしく・・・おおげさに 恐ろしく 気味悪く
唐臼・・・臼を地面にうずめ、てこ仕掛けになっている杵の柄を足で踏み動かしながら、米などをつくもの
枕上・・・枕もと 枕のそば
耳かしがまし・・・うるさい 耳にやかましく聞こえる
聞き入れたまはず・・・おかわりにならず
めざましき・・・不愉快な
音なひ・・・音
くだくだしきこと・・・ごたごたとわずらわしいこと
白妙の衣・・・白い着物
砧・・・布地をやわらげたり、艶を出したりするために使う木、または石の台
雁(かり)・・・がんの別名
取り集めて・・・多くのものを一つに寄せ集めて
しのびがたきこと・・・秋の哀愁をそそられて、堪えきれない事がら





夕顔~いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを~

【冒頭部】
いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、・・・・・・

【現代語訳】
(沈みかけて)ためらっている月の時分に、不意に(この家から)ふらふら浮かれ出るこ
とを、女は決心がつかずためらっており、(源氏は)あれこれと(勧めて)おっしゃるうち、
急に月が雲にかくれて、明けゆく空はほんとに美しい。(あまり明るくなって)きまり悪く
ならない前に(帰ろう)と、いつものように急いでお出になって、(女を)軽々と車にお乗
せなさると、右近が(お供として一緒に)乗った。このあたりに近い何とかいう院にご到
着になって、(この院の)留守番をお呼び出しになる間、荒れた門の(ところに生えている)
忍ぶ草が(上のほうまで)茂って見上げられるありさまは、たとえようもなく暗い感じが
する。霧も深く露っぽいのに、車の簾までも巻き上げていらっしゃったので、(源氏の)お
袖もひどく濡れてしまっていた。「まだ私はこんなことは経験しなかったが(やってみると)
ほんとに気のもめることなんだなあ。昔もこんなに人は恋のために迷い歩いたのだうか、
私はまだ経験したこともない夜明けの道を。あなたは経験おありですか。」とおっしゃる。
女は恥ずかしそうにして、「山の端の心も知らないで、それに向かって行く月は、途中の空
で姿もなくなってしまうのではないでしょうか。(あなた様の本心も知らずに、ついて参り
ます私は途中で消え失せてしまいそうです)心細うございます。」と言って、何か恐ろしく
気味悪そうに思っているので、(源氏は、それを)あの、たてこんだ住まいにいた習慣だろ
うと、おもしろくお思いになる。

【語 句】
いさよう月・・・月が、西の山に沈もうとして、まだ沈まずにためらっている時に。
ゆくりなく・・・思いがけず 突然に
あくがれむこと・・・①居所を離れて浮かれ出る ②そわそわと落ちつかない ③思いこ
がれる ここは①
思ひやすらひ・・・ためらって 決心がつかず、ぐずぐずしており
とかくのたまうほど・・・(女が決心するように勧めて)あれこれおっしゃる時に
雲がくれて・・・月が雲にかくれて
はしたなきほどにならぬさきに・・・(明るくなり、女の家から出るのを人に見られて)体裁悪くならない先に
例の・・・いつものように
かろやかに・・・軽々と夕顔を抱いて
なにがしの院・・・何とかいう院
あづかり・・・番人 管理人
忍ぶ草・・・うらぼし科の羊歯植物の一種
たとしえなく・・・たとえようがなく
木暗し・・・木が茂りあっていて暗い
露けき・・・露っぽい しめっぽい
簾をさへ上げたまへれば・・・うす暗いので、車の簾を巻き上げて少しでも明るくし、女
の姿を見ようとしたもの
かようなること・・・このようなこと 女を連れ出すことをさす
ならはざりつるを・・・慣れていなかったのに 経験しなかったのに
心づくしなること・・・気苦労なこと いろいろと気のもめること
いにしへもかくやは・・・昔もこんなふうに。
まどひけむ・・・恋の道に惑ったのだろうか。
しののめの道・・・明け方に行く道
ならひたまへりや・・・慣れていらっしゃいますか
山の端・・・山の稜線 山頂に接する部分
うはの空・・・上空
影や絶えなむ・・・月は消えてしまうのではないでしょうか
すごげに・・・気味が悪く
さしつどへる・・・人家の密集した
ならひ・・・習慣
をかしくおぼす・・・興味深くお思いになる





夕顔~宵を過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに~

【冒頭部】
宵を過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、・・・・・・

【現代語訳】
宵を過ぎるころ、(源氏が)少しお眠りになったところ、おん枕もとに、たいそう美しい女がすわっていて「私が(あなたを)ほんとうに結構な方だとお慕い申しているのに、その私を訪ねることもお考えにならないで、こんな格別よいところもない女を連れておいでになって、ご寵愛なさるのは、ひどく心外でつらく思われます。」と言って、源氏のお側の女をかき起こそうとすると、(夢に)ご覧になる。(源氏は)何か魔物にうなされる気持ちがして、目をおさましになると、燈火も消えてしまっていた。気味悪くお思いになるので、太刀を引き抜いて(枕もとに)お置きになって、右近をお起こしになる。右近も、恐ろしいと思っている様子でお側に近寄って来た。源氏が「渡殿にいる宿直人を起こして『紙燭をつけて来い』と言え。」とおっしゃると、右近は、「どうして参れましょうか。暗くて(とても行かれません。)」と言うので、源氏は、「まあ、子供っぽい。」とお笑いになさって、(人を呼ぶため)手をおたたきになると、反響する音が、ひどく気味悪い。(それを)人は聞きつけることができないで参上しないでいると、この女君はひどくふるえあがって、どうしたらよかろうかと思っている。汗もびっしょりになって、正気もない様子である。「何かと物をこわがることをむやみになさるご性質なので、どんなに(恐ろしく)お思いでいらっしゃるでしょう。」と右近も申し上げる。(源氏は)「(夕顔が)とても弱々しくて、日中でも空ばかり見ていたのに、(夜中にこんなめにあうなんて)きの毒だ」とお思いになって、「私が(宿直の)人を起こしてこよう。手をたたくと、音が反響するのがとてもうるさい。こちらに、しばらく、近寄って(いなさい。)」と言って、右近を引き寄せなさって、西側の妻戸の所に出て来て、戸を押しあけなさると、渡殿の燈火も消えてしまっていた。風が少し吹いているが、人は少なくて、お仕えしている者は全部寝ている。

【語 句】
をかしげなる女・・・美女
おのがいとめでたしと見奉るをば・・・私が(源氏の君を)たいそうご立派だとお見あげ申している(その私)を
尋ね思ほさで・・・たずねようともお思いにならないで
ことなることなき人・・・別に取柄もない女
ゐておはして・・・連れていらっしゃって
時めかしたまふ・・・ちやほやご寵愛になる
めざましく・・・心外に あきれるほど驚くさま
この御かたはらの人・・・源氏のおそばの人(夕顔のこと)
物におそはるる・・・魔物に苦しめられる
驚き・・・①はっとして気づく ②目がさめる ここでは②
うたて・・・異様に 怪しく
渡殿なる宿直人・・・渡殿の部屋にいる宿直の者
紙燭さして・・・紙燭に火をともして
山彦・・・音の反響 こだま
うとまし・・・いとわしい いやだ
わななきまどひて・・・ひどくふるえて
いかさまにせむ・・・どうしたらよいだろうか
しとどに・・・びっしょりと
われかの気色・・・われか人か分らない様子 正気のないさま
わりなく・・・むしょうに 一通りでなく
御本性・・・生まれつきのご性質
ここに・・・こっちに
西の妻戸・・・西側の開き戸
さぶらふ限り・・・お仕えする者すべて





夕顔~夜中も過ぎにけむかし~

【冒頭部】
夜中も過ぎにけむかし、風のやや荒々しう吹きたるは。・・・・・・

【現代語訳】
夜中も過ぎたのであろうよ、風が少し荒々しく吹いているのは。まして松風の音が木立ちの奥深くこもって聞こえて、異様な鳥が、ひからびた声で鳴いているのも、梟とはこれであろうかと思われる。いろいろ思いをめぐらすと、あちらもこちらも(すべて)人気も遠く不気味で、人の声もしない。どうしてこんなに心細い宿をとったのかとくやしさも晴らしようがない。右近は正気を失って、源氏の君にぴったり寄り添い申して、ぶるぶるふるえて死にそうである。源氏は(夕顔だけでなく)右近もまたどうなるだろうかと、うわの空でつかまえていらっしゃる。自分一人が気のたしかな者で、分別のなさりようがないよ。燈火はかすかにまたたいて、母屋の境に立ててある屏風の上や、あちこち暗がりが多く感じられなさるのに、何者かが、足音をみしみしと踏み鳴らしながら、うしろから近寄って来る気持ちがする。(源氏は)惟光が早く来てほしいものだとお思いになる。(ところが、その惟光は)居場所の定まらない(浮気)者であって、(使者が)あちこち捜していたうちに、夜が明ける間の長いことは、(まるで)千夜を過ごすような気持ちがなさる。やっとのことで、鶏の声が遠くに聞こえると、(源氏は心の中で)「命がけで、どういう前世の因縁によって、こんな目にあうのだろう。自分の心からではあるが、こういう(恋愛の)方面に、身分不相応で、あってはならぬ(不都合な)考えをもった報いによって、こんな過去や未来の例になるに違いない事件が起きたのであろう。いくら隠しても、世間に実際ある事は隠せず知れわたって、帝がお聞きになるのを初めとして、世の人々の思わくや評判、よくない子供達の噂の種となるにきまっているだろう。挙句の果ては、ばか者のような評判をとるのだろうなあ」と、いろいろお考えになる。やっとのことで、惟光の朝臣が参上した。夜中や早朝にかかわらず、源氏のお心に従っている者が、今夜に限って(源氏の)お側にいないで、お召しにまで遅れたことを、気に入らないとお思いになるものの、(部屋に)呼び入れて、話し出されること(の内容)が張りあいないので、急には物を言うこともおできにならない。右近は惟光の来た様子を聞きつけると、(源氏が夕顔に通うようになった)最初からのことが、自然に思い出されて泣くと、源氏の君もこらえきれなくなって、自分一人だけ気強く思って、(右近を)抱きかかえていらっしゃったが、惟光が来たのに、ほっと安心なさって、悲しいことも自然に思いなされるのだった。(源氏は)しばらく、たいそうはげしく、とめようもないほどお泣きになる。

【語 句】
まして・・・さらにいっそう
気色ある鳥・・・一くせある鳥 異様な感じのする鳥 不気味な鳥
から声・・・しわがれ声
け遠く・・・人気遠く 人気がなく寂しい
などて・・・どうして なぜに
くやしさもやらむ方なし・・・後悔の念も晴らしようがない
ものもおぼえず・・・物事の区別もできない 正気もない
わななき死ぬべし・・・恐怖にふるえながら死んでしまいそうだ
心そらにて・・・無我夢中で うわの空で
さかしき人・・・気のしっかりしている人
おぼしやる方ぞなき・・・いろいろ考えを及ぼす方法がない
またたきて・・・燈火がちらちら明滅して
隈々しく・・・暗がりが多く 暗く
ひしひしと・・・みしみしと
疾く参らなむ・・・早く来てもらいたい
ありか定めぬ者・・・いる場所の一定しない者
かかる目・・・こんなひどくつらい目
わが心ながら・・・(他人のせいではなく)自分の心からではあるけれども
かかる筋・・・こういう方面 ここでは、恋愛の方面
おほけなく・・・身分不相応に ずうずうしく慎みもなく
あるまじき心・・・あるべきでない心 不都合な考え
内裏に・・・帝におかれては
人の思ひはむこと・・・世人があれこれ思ったり、噂をたてること
よからぬ童べ・・・よくない京わらべ 教養のない若者たち
口ずさび・・・口なぐさみ 噂話の種
ありありて・・・長いことたって とどのつまり 挙句の果てに
をこがましき名・・・ばかのようにみえる評判
今宵しもさぶらはで・・・今夜に限ってお近くにひかえていないで
召しにさへ怠りつるを・・・源氏のお呼びにまでなまけて遅れたことを
憎しとおぼすものから・・・憎いとお思いになるものの
のたまひ出でむことの、あへなきに・・・おっしゃろうとしても、その話の内容が張りあいのないことなので
ふと・・・急に すぐに とっさに
大夫・・・五位の人の通称 五位である惟光をさす
え堪へたまはで・・・たえらえなくて
さかしがり・・・しっかり者のようにふるまう
息をのべたまひて・・・ほっと気がゆるむ 安心する
とばかり・・・しばらく 少しの間





若紫~わらはやみにわづらひたまひて~

【冒頭部】
わらはやみにわづらひたまひて、よろづにまじなひ・加持など参らせたまへど、しるしなくて、あまたたびおこり・・・・・・

【現代語訳】
(源氏の君は)おこりにおかかりになって、いろいろと呪い(まじない)や加持などをおさせになるけれども、ききめがなくて、何度も発作がお起こりになったので、ある人が、「北山にある、何とか寺という所にすぐれた行者がおります。去年の夏も(おこりが)世間に流行して、行者たちがまじなってもきかなくて伺っていたのを、(この行者は)すぐに治すという例がたくさんございました。(おこりを)こじらした時は、厄介でございますから。早くおためしなさるがよろしゅうございましょう。」などと申しあげるので、(その行者を)呼びに使いをおやりになったが、行者は、「年をとり、腰がまがって、庵室の外にも出ません。」と申したので、(源氏は)「どうにもしかたがない。(こちらから)こっそり出かけよう。」とおっしゃって、お供には親しくお使いになる四、五人だけを連れて、まだ夜の明けきらない暗いうちにお出かけになる。(行者の庵室は)少し山深くはいる所であった。三月の末なので、京都の花盛りはみな過ぎてしまっていた。(しかし)山の桜はまだ盛りで、(山の中へ)だんだん入ってゆかれるにつれて、霞のかかっている様子も趣深く見えるので、(源氏は)このようなお出歩きもなれていらっしゃらず、窮屈なご身分なので、(山の景色を)珍しくお思いだった。寺の様子もまことにしみじみと尊く感じられる。峰が高く、深い岩穴の中に、その聖はこもって住んでいたのだった。(源氏はそこに)お登りになって、(自分を)だれともお知らせにならず、ひどく粗末な身なりをしていらっしゃるが、(高貴な方だと)はっきりわかるご様子だから、(聖は)「まあ、恐れ多いこと。先日(私に)お召しのありましたお方でいらっしゃいましょうか。(私は)今は現世のことを考えておりませんので、加持祈祷で効験をあらわす方面の修行も捨てて忘れておりますのに、どうしてこう(わざわざ)おいでになられたのやら。」と驚きあわてて、にこにこしながら(源氏に)お目にかかる。たいそう尊い高徳の僧であった。しかるぺき護符を作って、お飲ませ申しあげ、加持などしてさしあげるうちに、日も高くさしのぼった。

【語 句】
わらはやみ・・・マラリアの一種。俗に「おこり」といい、二、三日ごとに一定の間隔を置いて高熱を出す。蜘が媒介する伝染病。
わづらひ・・・「わづらふ」は、①思い悩む、②病気になる、③(他の動詞について)すらすらゆかなくて困る、などの意がある。ここは②。
よろづに・・・あれこれとすべて。
まじなひ・・・神仏に祈り、その加護で病気を治療する方法。
加持・・・真言宗で行う祈祷。
人々・・・一般の行者や祈錯師。
やがて・・・①そのまま。②すぐに。ただちに。ここは②。
とどむる・・・病気の発作をとめる。治す。
ししこらかし・・・「ししこらかす」は病気をこじらす意。なお、しそこなう、仕損ずる意と解する説もある。
うたてはべるを・・・よろしくございませんから。
老いかがまりて・・・年を取り腰が曲がって
いかがはせむ・・・どうしようか、どうにもしかたがない。
暁・・・夜半から夜の明けるころまでの広範囲をいう。
三月のつごもり・・・陰暦三月の末ごろ。
入りもておはする・・・山の奥へだんだんはいってゆかれる。
かかるありき・・・このような山里歩き。
ならひ・・・慣れ親しんで。
所狭き・・・気づまりな。窮屈な。
あはれなり・・・ありがたく尊い感にうたれる。尊厳さに感じ入る。
深き岩の中に・・・周囲が岩にかこまれた奥深い中に庵室が作られ、その中に。
聖・・・高徳の僧。高僧。
入りゐたり・・・はいり住んでいた。
やつれたまへど・・・「やつる」は、①やせ衰える、②様子が見苦しくなる、みすぼらしくなる、の意があり、ここは②。
しるき御さま・・・きわだってはっきりしているご様子。
かしこや・・・「かしこ」は「かしこし」の語幹で、恐れ多い意。「や」は感動。
一日・・・先日。過日。
召しはぺりし・・・お召しがございましたお方。「はぺり」は「あり」の丁寧語。
この世のこと・・・現世のこと。現世の名誉・利益を望むこと。
験方の行なひ・・・修験に関する方面の修行。修験は加持祈祷でききめをあらわすこと。
大徳・・・徳の高い僧。
さるべきもの・・・しかるぺきもの。加持に当然用いるもの。ここは護符。





若紫~すこし立ち出でつつ見わたしたまへば~

【冒頭部】
すこし立ち出でつつ見わたしたまへば、高き所にて、ここかしこ僧坊どもあらはに見おろさる。・・・・・・

【現代語訳】
(庵室から外へ)少し出て、あたりをお眺めになると、(ここは)高い所なので、あちらこちらに僧坊がいくつもすっかり見おろされる。(源氏が)「すぐこの折れ曲がった坂道の下に、(よそと)同じ小柴垣だが、きちんと作りめぐらして、こぎれいな家や廊などを建て続けて、(庭の)植木もたいそう趣のある所は、だれの住む家であろうか。」とお問いになると、お供の人が「これこそ何々僧都が、この二年間こもっております僧坊だそうでございますよ。」(と答えるので、源氏は)「(それでは)気の置ける立派な人が住んでいる所のようだね。みっともないほど、あまり身なりをやつし過ぎだなあ。(私の来ていることを僧都が)聞きでもしたら困る。」などとおっしゃる。こぎれいな召使いの少女などが、大勢出て来て、仏に水を供えたり、花を折ったりなどするのも、すっかり見える。お供の人が、「あそこに女がいたよ。僧都は、まさかあんなふうに(女を)お置きになるまいに、どういう人なんだろうと口々に言う。(下に)おりて行ってのぞく者もいる。(帰って来た供人は)「美しそうな娘たちや、若い女房、召し使いの少女が見えます」と言う。源氏の君は(庵室に戻り)勤行をなさりながら、日の高くなるにつれて、(病気は)どうかしらとお思いであったが、(お供の人が)「何かと気をまぎらわしなさって、(病気を)気になさらないほうがよろしゅうございます。」と申しあげるので、(庵室の)うしろの山に出かけて、京都のほうをご覧になる。(源氏が)「遠くまで霞がかかって、四方の梢がどことなく一面にかすんでいるぐあいは、絵にほんとによく似ているなあ。こんな所に住む人は、心に残るような不足なことはあるまいよ。」とおっしゃると、(お供の人は)「これはまだ大したことはございません。地方などにございます海や山の様子などをご覧に入れましたならば、どんなにかおん絵はすばらしくお上手になられることでしょう。(たとえば)富士の山、何々の岳。」などとお話申しあげる者もある。また、西の国の趣ある浦々や、磯のことを次々とお話する者もあって、いろいろと(源氏のお心を)まぎらわし申しあげる。

【語 句】
僧坊・・・僧の住む家。
あらはに・・・すっかり丸見えに。むきだしに。
ただ・・・すぐ。「下」にかかる。
つづらをり・・・「九十九折り」と書き、折れ曲がっている坂道の意。
同じ小柴なれど・・・ほかの僧坊と同じ小柴垣であるが。
うるわしう・・・「うるはしく」の音便。端正に。きちんと整って。
しわたして・・・長々と作って。
きよげなる屋・廊・・・こざっぱりした建物や廊下。
よしある・・・趣のある。風情のある。
心恥づかしき人・・・こちらが気恥ずかしく思われるほど、立派な人。気のおける人。
あやしうも・・・見苦しいほど。変に。
やつし・・・「やつす」は、服装をわざとみすぼらしくする。粗末な身なりをする。
聞きもこそすれ・・・聞かれたら困る。
童・・・女の童のことで、召し使いの少女。
関伽・・・仏前に供える水。
よも・・・よもや。まさか。
をかしげなる・・・美しそうな。かわいらしい。
女子ども・・・娘たち。
若き人・・・若い侍女。若い女房。
日たくるままに・・・日盛りになるに従って。
とかう・・・あれこれと。「とかく」の音便。
おぼし入れぬ・・・「思ひ入れぬ」の尊敬表現。「思ひ入る」は、思いつめる意。
そこはかとなう・・・何となく。「そこはかとなく」の音便。
けぶりわたれる・・・霞がかかって一面にぼうっと煙っている。
人の国・・・①いなか。京都以外の地方。②外国。ここは①。
浅くはべり・・・(風景美の)程度が浅うございます。程度が低うございます。
なにがしの岳・・・何とかが岳。浅間山とみる説が強い。
磯の上・・・磯に関すること。「上」は「それについてのこと」の意。





若紫~日もいと長きにつれづれなれば~

【冒頭部】
日もいと長きにつれづれなれば、夕暮れのいたう霞たるにまぎれて、かの小柴垣のもとに立ち出でたまふ。・・・・・・

【現代語訳】
(春は)日もたいそう長いから、(源氏の君は)する事もなく退屈なので、夕方のひどく霞んでいるのにまぎれて、あの(僧都の坊の)小柴垣の所にお出かけになる。お供の人々はお帰しになって、惟光の朝臣とおのぞきになると、(見えたのは)すぐ目の前の西向きの部屋に、持仏をお据え申してお勤めしている尼なのであった。簾を少し巻き上げて、(仏に)花をお供えするらしい。(部屋の)中の柱に寄りかかって、脇息の上に経を置いて、ひどく大儀そうに読経している尼君は、普通の身分の人とは思われない。年は四十すぎくらいで、たいそう色が白く上品で、やせているが、顔つきはふっくらして、目もとのあたり、髪がきれいに切りそろえられている端も、かえって長い髪よりもずっと新し味があるものだなあと、(源氏は)しみじみとご覧になる。こぎれいな女房が二人ほど、そのほか召し使いの少女たちが出たりはいったりして遊んでいる。その中に十歳ぐらいであろうかと思われて、白い下着に山吹がさねかなにかの着なれたものを着て、走って来た女の子は、大勢見えていた子供達とは比べようもなく、たいへん成人後の美しさが思いやられて、かわいらしい顔立ちである。髪は扇をひろげたようにゆらゆらとして、顔は(泣いたらしく)こすってひどく赤くして立っている。「どうしたの。子供達とけんかをなさったのですか。」と言って、尼君が見上げた顔に、少し似ているところがあるので、(尼君の)子のようだと(源氏は)お思いになる。

【語 句】
日もいと長きに・・・日もたいそう長いので。
つれづれなれば・・・手持ちぶさたで。することがなく退屈なので。
ただこの西面にしも・・・すぐ前の西向きの部屋に。
持仏・・・「念持仏」の略で、いつも身近に持って信仰する仏像。守り本尊。
中の柱・・・部屋の中央の柱。
脇息・・・座った時、ひじをかけて休息する道具。
なやましげに・・・苦しそうに。
ただ人・・・普通の身分の人。
あてに・・・上品で。
つらつき・・・顔の様子。ほおの様子。
ふくらかに・・・ふっくらとして。肉付きのよいさま。
まみのほど・・・目もとのあたり。
髪のうつくしげにそがれたる末・・・髪のきれいに切りそろえられた端。
なかなか・・・かえって。むしろ。
いまめかき・・・当世風な。モダンでしゃれている。
大人・・・一人前の女房。中年の女房。
さては・・・それからまた。あるいは。
白き衣・・・上着の下に重ねて着た単衣の白い着物。
山吹・・・山吹がさね。表は薄朽葉色で、裏が黄色の袷の着物。
なれたる・・・糊気が落ちて、やわらかくなっている(着物)。
似るべうもあらず・・・似るはずもなく。
生ひ先・・・成長して行く先。将来。
うつくしげなるかたち・・・かわいらしい容貌。
赤くすりなして・・・赤くこすって。
腹立ちたまへるか・・・お怒りになったのか。けんかなさったのか。
おぼえたる・・・似ている。





若紫~雀の子を犬君が逃がしつる~

【冒頭部】
(紫)「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを。」とて、いと口惜しと思へり。・・・・・・・

【現代語訳】
(すると少女は)「雀の子を犬君が逃がしたの。伏寵の中に入れておいたのに。」と言って、たいヘん残念だと思っている。そこにいた女房が、「いつもの不注意者が、こんなことをしてしかられるとは、ほんとに気がきかないこと。(雀は)どちらヘ行きましたか。ほんとにかわいらしく、だんだんなりましたのに。烏などが見つけたら大変です。」と言って、立って行く。髪はゆったりとたいそう長く、(きりょうも)見苦しくない人のようだ。少納言の乳母と人が呼んでいるらしいことからみて、この子の世話役なのであろう。尼君は、「ほんにまあ、子供っぽいこと。お話にならないほどでいらっしやいますね。私が、こんな今日明日とも知れぬ命なのを、何ともお思いにならないで、雀のあとを追いかけていらっしやることよ。(生き物をいじめるのは)罪作りなことですよと、いつも申すのに、(こんな様子では)情けないことです。」と言って、「こちらへいらっしゃい。」と言うと、(尼君の前に来て)すわった。顔立ちは、とてもかわいらしくて、眉のあたりがほんのりしていて、子供っぽく髪をかき上げた額ぎわや、髪の様子がたいへん美しい。成人してゆく様子が見たい人だなあと、(源氏の)目がおとまりになる。そうではあるが実は、限りなく心をお寄せ申しあげる方に、とてもよく似ておいでになることで、自然に見つめられるのだったなあ、と思うにつけても、涙がこぼれ落ちるのである。

【語 句】
伏籠・・・竹製のかご。香炉の上にかぶせ、上に衣服をかけて、香をたきしめるのに用いる。
このゐたる大人・・・そこにいた、この中年の女房。
例の心なし・・・いつものうっかり者。
さいなまるる・・・「さいなむ」は、上の者が下の者を叱る、責める意。
心づきなけれ・・・気にくわない。好かない。いけない。
をかしうやうやうなりつるものを・・・だんだんかわいらしくなったのになあ。
めやすき人・・・見苦しくない人。美しい人。
いふかひなうものしたまふ・・・言うかいもなくいらっしゃる。聞き分けもなくいらっしゃる。
罪得ること・・・仏罰を受けること。
心憂く・・・情けなく思われる。
こちや・・・こっちへおいで。
ついゐたり・・・「ついゐる」は「突き居る」の音便。膝をついて座る意。
ういけぶり・・・ぼうっとして。生えたままの眉毛で手入れをしていないさま。
いはけなく・・・あどけなく。幼く。
髪ざし・・・髪の生えぐあい。
ねびゆかむさま・・・成長していく将来の様子。
さるは・・・①逆接。そうはいうものの。その実。②順接。だから。 ここは①
心を尽くし聞こゆる人・・・できるだけ心をかたむけてお慕い申し上げる人。藤壺の女御のこと。
まもらるる・・・「まもる」は凝視する意。





若紫~尼君、髪をかき撫でつつ~

【冒頭部】
尼君、髪をかき撫でつつ、(尼)「けづることをうるさがりたまへど、をかしの御髪や。いとはかなうものしたまふこそ、・・・・・

【現代語訳】
尼君は(少女の)髪を撫でながら、「髪を梳くことをおいやがりになるけれども、きれいなお髪だこと。ほんとにたわいなくいらっしやるのが、かわいそうで気がかりです。これぐらいの年になれば、ほんとにこんなでない人もいますのにねえ。亡くなった姫君(=少女の母)は、十二歳で父君(=尼君の夫)に先立たれなさったころ、たいそう物事がおわかりでしたよ。今すぐにも私が(あなたを)お残しして死んでしまったら、どうやって生きてゆこうとなさるのでしょう。」と言って、ひどく泣くのをご覧になるにつけても、(源氏の君は)なんとなく悲しい思いがする。(少女は)子供心にも、やはり(泣いている尼君を)じって見つめて、伏し目になってうつ向いた時に、前へこぼれかかった髪の毛が、つやつやとして美しく見える。(尼君が)成長して、どういう所に暮らすことになるかもわからない若草(のような子)を、後に残してゆく露(のようにはかない私の命)は消えようにも消える所がない。
  (と歌を詠むと)もう一人そこにいた女房が「ほんとにごもっとも」と泣いて、
初草(のような姫君)の成長して行く将来もわからないうちに、どうして露(=尼君)が消えようとなさるのでしようか。(消えようとなさらず、長生きして下さい。)
と申しあげるところに、僧都が向こうからやって来て、「こちらは外からまる見えではありませんか。今日に限って縁がわ近くにおいででしたね。この上の聖の坊に、源氏の中将がおこりのまじないにおいでになったのを、たった今、聞きつけました。たいそうお忍びでいらっしゃったので、(私は)存じませんで、ここにおりながら、お見舞いにも参上いたしませんでしたよ。」とおっしゃると、(尼君は)「まあ、大変だこと。たいそう見苦しい姿を誰か見たでしょうかしら。」と言って、簾をおろした。(僧都は)「世間で評判になっていらっしゃる光源氏の君を、こういう機会に拝見なさいませんか。(私のように)俗世を捨てた法師の心にも、(その美しさに)すっかり世の悩みも忘れ、寿命も延びるほどのお姿です。どれ、(私も)ご挨拶申しあげよう。」と言って、立ち上がる音がするので、(源氏は庵室へ)お帰りになった。(源氏は心の中で)「かわいい人を見たものだなあ。こういうわけだから、あの色好みの者たちは、こんな忍び歩きばかりして、めったに見つけられないような美人をよく見つけるのだったなあ、(私のように)たまに出かけてさえ、こんなに意外なことにあうものよ」と、興味深くお思いになる。「それにしても、ほんとにかわいらしい子だったなあ。どういう人だろう。あの方の代わりに、毎日(心の)慰めに見たいものだ」と思う心が(内部に)深くとりついた。

【語 句】
けづる・・・櫛で髪をとかす。すぐ。
をかしの御髪や・・・美しいお髪だこと。
はかなうものしたまふ・・・子供っぽくおありになる。
うしろめたけれ・・・「うしろめたし」は、心配だ、気がかりだ、の意。
かからぬ人・・・こんな子供っぽくない人。
故姫君・・・尼君の娘で、今は亡き人。
殿・・・尼君の夫で、故姫君の父に当たる按察使(あぜち)の大納言。
物は思ひ知る・・・物言の道理をわきまえる。
すずろに・・・わけもなく。なんとなく。
さすがに・・・今度はさすがに。やはり。
めでたう見ゆ・・・すばらしく見える。立派に見える。
生ひ立たむありか・・・成人して落ちつく先。
若草・・・幼い姫君(紫の上)をたとえる。
おくらす露・・・若草をあとに残して消えてゆく露。尼君自身をたとえる。
消えむそらなき・・・消えるところもない。消えてゆく(死んでゆく)気持ちもしない。
また・・・そのほかに。別に。
はつ草・・・「若草」つまり姫君をさす。
僧都・・・尼君の兄に当たる。
今日しも・・・よりによって今日。
聖の坊に・・・聖の僧坊に。
ものしたまひける・・・この「ものす」は「来る」の意。
御とぶらひ・・・お見舞。お訪ねすること。
まうで・・・この「まうづ」は、「行く」の謙譲語。
あないみじや・・・まあ、それは大変。「いみじ」は、この場合、ひどく困った気持ちを表す。
あやしきさま・・・みっともない様子。
ののしりたまふ・・・「ののしる」は、大騒ぎする、盛んに評判する意。
御消息聞こえむ・・・ご挨拶申し上げよう。
あはれなる人・・・かわいい人。
このすき者ども・・・例の浮気者たち。
かかるありき・・・こういう忍び歩き。
さるまじき人・・・(普通なら)見つけることのできない(美しい)女。
たまさかに・・・たまに。まれに。
かの人の御かはりに・・・あの方の代わりとして。「かの人」は藤壺をさす。









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