平家物語(巻第一~巻第七)




祇園精舎(巻第一)~祇園精舎の鐘の声~

【冒頭部】
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、

【現代語訳】
祇園精舎の(鳴りわたる)鐘の音には、諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化してとどまることがないという(思いを告げ知らせる)響きがある。(また)沙羅双樹の花(が釈迦入滅とともにあせたという)その色は、(勢いが)盛んな者も必ず衰えるものであるという(この世の)道理を表している。(そのようなわけで)世に栄え得意になっている人も(その栄えは)いくらも続かない(で滅びてしまうのは)、もうまるで春の夜の(あけやすい折で一層はかない)夢のようである。(また)勢い盛んではげしい者も、結局は滅びさってしまう(が、それも)まるで風の前(にあった)塵と同じ(で、たちまち吹きとばされるように消え去ってしまう)。(わが国とはへだたること)遠く外国の史実を尋ねてみると(例は多く)、秦の趙高・漢の王莽・梁の朱、唐の禄山(などを考えてみれば)、これらの人はみな(仕えていた)主君や皇帝の政治にも従わないで、(自分勝手な)楽しみのかぎりを思うままにし、(他人の)諫言をも(心にいれて)思うことをせず、(その結果)天下が(しだいに)みだれるような事に気がつかないで、世の人々が歎き痛むことを知らなかったために、(勢い盛んであったことも)いくほどもなく、滅び去った者どもである。(一方)身近くわが国(の史上)を調べてみても(同じことで)、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、(これらの人は)おごった心も勢いはげしかった事も、みなそれぞれ(のはなはだしさ)であったけれども、ほんの最近の(例で)は、六波羅の入道、前の太政大臣、平朝臣清盛公と申しあげた人のありさまは、(人から)伝え聞きにうかがうにつけても、(思いやる)心も(言い表す)ことばも、どうにも及ぶことができない(ほどきわだったものだ)。

【語句】
祇園精舎・・・「祇園」は釈迦が経を説いた場所である祇陀林にこと、「精舎」は仏道修行者の住む舎宅の意。
諸行無常・・・この世の万象はみなうつり変ってとどまることがないということ。
沙羅双樹・・・「沙羅」は梵語で「高遠」を意味する。
盛者必衰のことわり・・・勢い盛んなものも必ず衰えるものだという道理。
春の夜の夢・・・はかないもののたとえにいう。
ひとへに・・・もうまったく。
風の前の塵・・・これもまたはかないもののたとえ。
異朝・・・外国だが実際には中国を指して使われている。
旧主先皇・・・もと仕えていた主君や皇帝。
政・・・「まつりごと」と読む。政治、政道。
民間・・・世の人々。
亡じにし・・・滅んでしまった。
とりどりにこそありしかども・・・さまざまであったけれども。
六波羅の入道・・・六波羅に住まった入道(髪をそって仏門に入った人)。
申しし人・・・申した人。
伝へ承るこそ・・・伝え聞き申すにつけても。





祇園精舎(巻第一)~その先祖を尋ぬれば~

【冒頭部】
その先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、

【現代語訳】
平清盛の先祖をもとめ調べてみると、桓武天皇第五の皇子の一品式部卿葛原の親王の、九代目にあたる子孫である讃岐の守正盛の孫で、刑部卿忠盛の朝臣の長男である。かの葛原親王の御子である高見の王は官職も官位もないさまでお亡くなりなさった。(その後)その御子の高望王の時、始めて平の姓を(みかどから)いただいて、上総の介におなりなさってから急に皇族の身分をはなれて臣籍に列したのである。
その子鎮守府の将軍良望は、後には国香と名を改めた。国香から正盛にいたるまで(その間)六代は、地方の諸国の国守であったけれども、清涼殿の殿上の間に伺候する資格をまだ許されなかった。

【語句】
式部卿・・・式部省の長官。
無官無位にして・・・官職もなく官位もないさまで。
給はつて・・・いただいて。
上総介・・・上総国の長官。
人臣につらなる・・・臣下になること。
受領・・・国守。地方官の最高位者。





橋合戦(巻第四)~宮は宇治と寺とのあひだにて~

【冒頭部】
宮は宇治と寺とのあひだにて、六度まで御落馬ありけり。

【現代語訳】
(高倉の)宮は、(奈良の方へ落ちて行かれる時)宇治と三井寺との間で、六度まで馬から落ちなさった。このことは昨夜おやすみになることができなかったからであるということで、(宇治川を渡ってから)宇治橋の橋板を、橋の柱三本分とりはずし、(高倉宮を)平等院にお入れ申しあげ、(そこで高倉宮は)しばらくの間ご休息なさった。
(一方、都の平家方の)六波羅では、「それ、高倉宮が南都奈良へひそかにお逃げなさるようだ。(あとを)追いかけて討ちとり申しあげよ。」といって、(追手の軍の)大将軍には左兵衛督知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛、薩摩守忠度(が当り)、侍大将には上総守忠清、その子の上総太郎判官忠綱、飛騨守景家、その子の飛騨太郎判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛尉盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清をはじめとして、すべてあわせてその軍勢は二万八千余騎で、(それらが途中の)木幡山をどんどん越して、宇治橋の橋のたもとにおしよせた。(平家方では)敵が平等院に(入っている)とみてとったので、合図の閧の声をあげること三度(くり返し)、高倉宮の御方でもそれにあわせて閧の声をあげた。(平家の)先陣が、「(敵は)橋板を引きぬいてあるぞ。(そこから落ちて)怪我をするな。」と大声で叫んだけれども、後陣のものはその声を聞きとることができないで、われさきに(と勇みたって)進むので、先陣の二百余騎は(川の中へ)押し落とされ、水に溺れ死んで流されてしまった。(そんな混乱のほどに平家方は勇みに勇んでいたが、やがて)宇治橋の両岸のたもとにそれぞれ軍勢を揃えて合戦の合図の鏑矢を互いに射あった。

【語句】
すはや・・・それっ、というほどの意。
都合・・・すべてあわせて。
つめ・・・端。きわ。
かたき・・・(戦争の)相手。
あやまち・・・けがの意。
どよみけれども・・・「どよむ」は「とよむ」と同じ、騒ぐ、大声をたてるの意。





橋合戦(巻第四)~宮の御方には~

【冒頭部】
宮の御方には、大矢の俊長、五智院の但馬、

【現代語訳】
高倉宮の御方では、大矢の俊長、五智院の但馬、渡辺の省・授・続の源太が射た矢は、鎧にも防ぎとめられず、楯にもさえぎられないで(裏のほうまで)射通した。源三位入道は、長絹の鎧直垂に、科皮縅の鎧を身につけていた。この日を最後(の合戦)とお考えになられたのだろうか、ことさら甲をばつけておられない。嫡子の伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧の姿である。(この仲綱も)弓を思いきり引こうと思って甲をばかぶっていなかった。さて、五智院但馬は、大長刀のさやをはずし、ただ一人で橋の上に進んだ。平家方ではこの様子を見て、「あれを射取れよ、者ども。」と言って、格別力まさった弓の上手な者たちが、そろってねらいを定めて、弓に矢をつがえては引き、引いてはつがえるばかりにむやみやたらと射る。(しかし)但馬はちっとも騒がないで、高目にとんでくる矢をさっとくぐり、低くとんでくる矢を躍り上がって越え、まともに向かってくる矢をば大長刀で切って落とす。(あまりに見事な奮戦ぶりを)敵の平家方も味方のものたちも見とれていた。この時の奮戦のさまから(五智院但馬を)「矢切りの但馬」と言われたことだ。

【語句】
究竟・・・ひじょうにすぐれていること。





橋合戦(巻第四)~堂衆のなかに~

【冒頭部】
堂衆のなかに、筒井浄妙明秀は、褐の直垂に

【現代語訳】
(宮の御方の)堂衆のなかで、筒井の浄妙明秀は、濃紺色の直垂に、黒皮縅の鎧を着て、五枚甲(をかぶって)その緒をしめ、黒いうるし塗りの太刀を腰におび、二十四本の黒ぼろの矢を差した(箙を)背負い、籐をまいて漆を塗りこめた弓に、好みの白柄の大長刀をそろえ持って、橋の上に進み出た。(そして)大声をはりあげて名前を名のって、「つね日ごろは(われの剛勇のほどを)うわさにもきっと聞いていることだろう、今日は(そのうわさが間違いでないように)目にも(たしかに)御覧なさい。三井寺には隠れもない(だれでもどこでもわれを見知っているぞ)。堂衆のなかで筒井浄妙明秀という一人で千人をも敵とするつわものだ。われこそ(まさっている)と思うような人々は近づいてきて勝負せよ。お相手つかまつろう。」と言って、二十四本差してあった矢を、次々につがえては引きしぼってさんざんに射る。たちまちに十二人の敵を射殺して、十一人の敵を負傷をさせたので、箙にはたった一本の矢が残った。(すると)弓をばからりと投げ捨てて、箙も解いて捨ててしまった。(さらに)毛皮で作ったくつも脱いではだしになり、橋の行桁(にのぼってそこ)をさっさっさっと走って渡った。人はこわがって渡らないけれども、浄妙房の心地には(まるで京都の)一条や二条の大路(であるかのように)と振舞った。(白柄の大)長刀で向かってきた敵五人をなぎ倒し、六人めにあたる敵と戦って長刀を中ほどで打ち折って、捨ててしまった。その後は、太刀を抜いて戦うのだが、敵は大勢で、(浄妙房は)蜘蛛手・角繩・十文字・とんぼうがえり・水車と、(いずれもすばらしい太刀の使い方で)四方八方抜け目なく切りまくった。いきなり八人の敵を切り倒し、九人めにあたる敵の甲の鉢に、ひどく強く打ちあてたために、目貫のところからぽきりと折れ、ぐっと抜けて川へざんぶと入ってしまった。(かくてはどうにもいたし方なく、わずかに)頼みとするところは腰刀(だけで、それで最後の奮戦をして)ひたすら死のうとばかり狂ったかのように戦った。
さて乗円坊の阿闍梨慶秀が召し使っていた一来法師という大刀で敏捷な者がいた。(浄妙房に)続いて背後で戦っていたが、(橋を渡ろうとするのに)行桁はせまいし(浄妙房の)かたわらを通り過ぎることができない。浄妙房の甲の吹き返しの前に手をかけて、「(失礼なしようで)悪いです、浄妙房。」と(叫んで)肩をどんと跳り越えて(前に出て)戦った。(こうして)一来法師は討死してしまった。(一方)浄妙房は(やっと)這うようにしてもどり、平等院の門の前にある芝の上に、鎧や甲を脱ぎ捨て、鎧に立った矢傷を数えてみたところ、六十三か所(もあり)、鎧の裏まで通った矢が五ヶ所(ある)、しかし命にかかわる負傷ではないので、あちらこちらと灸をすえて治療し、頭を(布で)巻き、僧衣を着て、弓を切って杖につき、平足駄をはき「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えつつ、奈良の方へ(向かって)おちのびていった。
(ところで橋のところでは)浄妙房が渡ったのを手本にして、三井寺の大衆・渡辺党のものたちが、次から次へと走り続いて、われもわれもと(先を争って)橋の行桁を渡ったことであった。(それらのなかには、敵の品を)分捕って帰る者もあれば、重傷を受けて腹をかき切り川へ飛びこむ者もある。橋の上の合戦は火が出るほど(のすさまじさ)であった。

【語句】
やにはに・・・たちまち。
捨ててんげり・・・捨ててしまった。
あまりに・・・はなはだしく。ひどく。
はふはふ・・・はうようにして。やっとのことで。
まかりける・・・落ちていった。





橋合戦(巻第四)~これを見て、平家の方の~

【冒頭部】
これを見て、平家の方の侍大将上総守忠清大将軍の

【現代語訳】
宮の御方の奮戦ぶりを見て、平家の方の侍大将である上総守忠清は、大将軍の御前に参って、「あれを御覧下さいませ。(宇治)橋の上の合戦は、難渋しております。今は(わが軍をして)宇治川を渡るようにするべきでございますが、ちょうど(今は)五月雨のころで(宇治川の)水がふえております。(だから、もし川を)渡すならば、きっと馬・人ともに多く死ぬことでしょう。淀か一口へ向かうのが(そして、そこを渡るのが)よろしいでしょうか。(あるいはいっそ)河内路へ回り道をするのがよろしいでしょうか。」と申しあげたところに、下野の国の住人である足利の又太郎忠綱が(大将軍の御前に)進みでて申したことは、「淀とか一口とか河内路(とか忠清がいわれるがそれら)をば印度か中国の武士を呼び出してお向けなさるのでしょうか。(そうではなくて)それら(へ)もわれらがこそ向かうのでしょう。(そんな考えに従っていて)目前にしている敵(の宮方)を討たないで、もし(宮を)奈良の都へお入れ申しあげましたなら、吉野とか十津川の軍勢どもが(馬を)馳せて集まって(高倉宮の加勢をし)いよいよ御大事でございましょう。武蔵(の国)と上野(の国)との境に、利根川と申しております大河があります。秩父(の豪族)と足利(のわが父俊綱)が不和になって、いつも合戦をしていましたが、(あるとき足利方の)正面からの軍勢は長井の渡り、背後から攻める軍勢は故我杉の渡りから攻め寄せましたが、上野の国の住人である新田の入道は足利方の仲間に引き入れられて(秩父勢を攻めるのに)杉の渡し場から攻め寄せようと思って用意して置いた舟を何艘も、秩父勢の方からみなこわされて(進退きわまった時に、新田の入道が)申しましたのには『(舟がこわれてしまっても)ただいまこの杉の渡し場を渡らなかったならば、ながい(後々までの)弓矢(をとる武士たる身)の恥だろう。(あえて渡って)水に溺れてもし死ぬならば死んでもかまわない。(死ぬのは恐れるに足りない。)さあ渡ろう。』といって、馬いかだを組んで(思いきって)渡したからこそ渡ったのであったのでしょう。(このような)東国武者の習わしとして、敵を目に見て、川を隔てる合戦に、淵(が深いから)瀬(が浅いからなどと)をえり好みをする法がありましょうか。この(宇治)川の深さや速さは、利根川(の深さ速さ)にどれほどの違いもまさかありはしますまい。(わがあとに)続けよ人々。」といって、(足利の又太郎忠綱)はまっ先に(宇治川に馬を)乗り入れた。(あとに)続く人々は、大胡・大室・深須・山上・那波の太郎・佐貫の広綱四郎大夫・小野寺の禅師太郎・辺屋子の四郎で、郎等には、宇夫方の次郎・切生の六郎・田中の宗太をはじめとして、三百余騎が(あとに)続いた。足利(忠綱)は大音声をあげて「強い馬をば(川の流れの)上手に立てろ、弱い馬をば下手にせよ。馬の足が(川の底に)届いているような間は手綱をゆるめて(馬を)歩かせろ。(川底に届かなくなって)飛びあがるようになったら手綱をひき締めて泳がせよ。遅れそうな者をば弓の端につかまらせろ。(互いに)手を組み肩を並べて渡すがよい。(馬の)鞍壺にしっかりと乗り、鐙を強く踏め。馬の頭が沈んだなら引き上げろ。(しかし)あまり強く(手綱を)引いて、ひっかぶるようになるな。(深くなって)水に浸るほどになったなら、三頭の上に乗りかかれ。馬には弱く、水には思いきって当たらなければいけない。川の中で弓を引くな。敵が矢を射ても応待するな。いつも錏を傾けていよ。(だが)あまりに傾けて天辺を射させてはいけない。(流れに)直角に渡って(川の中に)押し落とされるな。水の流れに沿って(斜めに)渡れよ渡れ。」と指図して、三百余騎、一騎も流されることなく向かいの岸へざあっと渡った。

【語句】
をりふし・・・ちょうどその時。
目にかけたる・・・目の前に見えている。
設けたる・・・用意した。
かねに・・・直角に。
水にしなうて・・・水の流れに順ってたわんで。
掟てて・・・さしずして。





忠度の都落ち(巻第七)~薩摩守忠度は、いづくよりや~

【冒頭部】
薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、

【現代語訳】
薩摩の守忠度は、(都落ちしていったがその途中の)どこからお戻りになったのであろうか、侍五騎と童一人、自分とあわせて七騎で帰り戻り、五条の三位俊成の卿の邸にいらっしてご覧になると、(邸では)門戸を閉めていて開かない。「忠度(が参上いたしました)。」とお名のりなさると、「(平家の)落ち武者が帰ってきた。」といって邸の内では騒ぎあっている。薩摩の守は馬からおり、ご自身で声高くおっしゃったことには、「(私が参りましたのは)特別な事情があるわけではございません。(だからなにとぞご安心下さい。)三位殿にお願いしたいことがあるので、忠度が帰り参りました。たとい門をお開けにならないでも、この(門の)あたりまでお立ち寄り下さい。」とおっしゃると、俊成の卿が(その声を聞いて)「(帰り戻られたのは)しかるべき相当な事情があるのだろう。その人であるならさしつかえはないだろう。お入れ申しあげよ。」とおっしゃって、門をあけてお会いになった。その様子はすべて感慨深いことであった。

【語句】
侍・・・供に仕える武士。
童・・・召使いの子ども。
とって返し・・・ひきかえし。
宿所・・・邸宅。
落人・・・人目をさけて落ちのびる人。
別の子細・・・特別の事情。
このきは・・・この門の傍。
さる事・・・そのような事情。
くるしかるまじ・・・「苦し」はさしさわりがある、具合が悪いの意。
事の体・・・その場の様子。
なにとなう・・・格別に何かということもなく、つまりすべてにわたっての意。





忠度の都落ち(巻第七)~薩摩守のたまひけるは~

【冒頭部】
薩摩守のたまひけるは、「年ごろ申し承って後、

【現代語訳】
薩摩の守がおっしゃったことは、「長い年月、和歌のご指導をいただいてから、(和歌の道を)なみ一通りな事ではなく思い申しておりましたけれども、この(最近の)二、三年は、京都の騒ぎや地方の国々の乱れ(が引き続いて起り、それらは)すべてわが平家の身の上に関係することでございますので、(歌の道を)いい加減には思い申してはおりませんものの、いつも(ご指導をいただくために)参上するということもございませんで(月日を過ごしました)。主上はもはや都をお出ましになりました。平家一門の運命は、もはや尽きてしまいました。勅撰集が選ばれるはずだということを、うかがいましたので、(私の)一生涯のうちの名誉として、せめて一首でも(三位殿の)御恩をいただいて(勅撰集に載せていただこう)と存じておりましたのに、たちまちに世の乱れが起こって撰集のご命令がございませんことは、まったく(私)一身にとっての嘆きと存じます。世(の乱れ)がおさまりましたなら、勅撰集を選ぶご命令がございましょう。(その時に)ここにあります巻き物のなかに適当な歌がございましたなら、たとい一首でも御恩をお受けして載せていただきまして、死後のあの世でうれしいと存じましたなら、(その御恩返しとして)遠いあの世から、(あなたを)お守り申すことでございましょう。」と申して、日ごろ詠みおきなされたかずかずの歌のなかで、秀れた歌と思われるものを百余首書き集めなされた巻き物を、今は(最後)と(都を)出立なされた時持っていらっしゃったが、(それを)鎧の引き合わせから取り出して、俊成の卿にさしあげる。

【語句】
年ごろ・・・長い年月。
おろかならぬ・・・並み並みでない。「おろかなり」は「おろそかなり」と同じで疎略であること。いい加減であること。
しかしながら・・・すべて。
疎略を存ぜず・・・なおざりの気持ちに思い申すことがないの意。「疎略」はいい加減であること。
御恩をかうぶらう・・・ご庇護をおうけしよう。
やがて・・・すぐに。
一身の嘆き・・・わが身にとっての嘆き。
候ひなば・・・ましたなら。





忠度の都落ち(巻第七)~三位これをあけて見て~

【冒頭部】
三位これをあけて見て、「かかる忘れがたみを

【現代語訳】
三位殿はこの巻き物を開けて見て、「このような忘れられない記念の品をいただきおきましたうえは、決して(これを)粗末に扱うなどとは思い申しません。お疑いなさりはしないで下さい。それにしてもただ今のお出でこそ、風情を解するお心も格別に深く、しみじみとした感慨も一段と恵ざられて、感動であふれる涙はどうにも押さえられないことであります。」とおっしゃると、薩摩の守は喜んで、(貝巻き物を三位殿にお願いしおえた)「今は、(敗走して)西国の海の波の底に沈むなら沈んで、(死んでも)いい、山野に(死後の)屍をさらすならさらしてもいい。はかないこの世に思い残すことはございません。それではお別れ申して(参ります)。」とおっしゃって、馬にさっと乗りかぶとの緒をしめて、西の方をさして(馬を歩ませなさった。)三位俊成の卿は(その)うしろ(姿)を遥かへだたるまで見送って立っていらっしゃると、忠度の声と思われて、「前途程遠し…(これからあなたが旅をしてゆくその行く先は、はるかに遠い。その途中に越える雁山の、夕方どきにたちこめる雲を思いやってそこを越えゆく苦労をしのび惜別の情に堪えないことです。)と声高々と吟じなされると、俊成の卿もいよいよ名残り惜しく思われて、涙を押え(悲しみをこらえて)、邸のうちにお入りなされた。」

【語句】
忘れがたみ・・・忘れることのできない記念の物。
ゆめゆめ・・・決して。
御わたり・・・おいで。ご来訪。
情けもすぐれて深う・・・「情け」は風情、情趣を解する心、また風情そのもの。
哀れ・・・しみじみとした感慨。身にふかく感じとられる感動。
感涙・・・感激にあふれでる涙。
かばね・・・しかばね。死骸。
うき世・・・浮き世。はかないこの世。
いとど・・・いよいよますます。





忠度の都落ち(巻第七)~その後、世しづまって~

【冒頭部】
その後、世しづまって千載集を撰ぜられけるに、

【現代語訳】
(このようないきさつがあって)その後、(戦乱が終り)世の中が静かになって(俊成卿が)千載集をお撰びなされた時に、(その時の)忠度の生前の様子、言い残した言葉が、いまさらのように思いだされてしみじみと感慨深かったので、(歌を選んで約束を果たそうとした。さて、)例の巻き物のなか(の百余首の歌のうち)には相当な秀歌がいくらもあったけれど、(忠度は、平家追討の院宣の結果)天皇のおとがめを受けた(朝敵となった)人であるから、その姓名をはっきりおさせにならないで、故郷の花という題でお詠みになった歌一首だけを、「読み人知らず」として(千載集)お入れなさった。(その歌は)「さざ波や…(昔の都)、志賀の都は荒れはててしまったが、昔に変らず長良山の山桜は(美しく咲いていることだなあ。)」(というのである。)忠度はその身が、朝敵となってしまったからには、(二首しか選ばれず、しかも「読み人知らず」とされたこと)、とやかく言いたてるようなことではないというものの、残念に思われることである。

【語句】
ありしありさま・・・文字通りなら「あった様子」だが、結局おもかげに浮ぶ生前の姿かたち、様子をいう。
いまさら・・・いま改めて。
哀れなりければ・・・しみじみと深い感慨にとらえられることをいう。感慨無量であること。
さりぬべき・・・適当である、それ相当である、立派である、などの意味をあらわす。
故郷・・・旧都。ふつうに使う意味の故郷ではなく以前都であった所の意。
荒れにしを・・・荒れてしまったが。
子細に及ばず・・・あれこれと事情をいいたてるまでもない。









PAGE TOP