平家物語(巻第九)




宇治川の先陣(巻第九)~同じき正月十一日~

【冒頭部】
同じき正月十一日、木曾左馬頭義仲院参して

【現代語訳】
同じ(寿永三年)正月十一日、木曾の左馬頭義仲は(後白河法皇の)御所に参上して、平家を追討するために西国へ出発するつもりであることを申しあげた。同じ(正月の)十三日、もはや出陣したと言われたころに、東国から前の兵衛の佐頼朝が、木曾(義仲)の乱暴を静めようとして数万騎の軍兵を(京都へ)攻め上らせられたが、もう美濃の国や伊勢の国に到着したと伝わったので、木曾はひじょうに驚いて、宇治と瀬田の橋の橋板をとりはずし、軍勢を分けて、(それぞれに)派遣した。ちょうどその時は(木曾の手もとには)軍勢も少なかった。瀬田の橋へは(その方面が)正面のまもりであるから(だいじである)と考えて、今井の四郎兼平に八百余騎(を従えさせ)て派遣した。宇治橋へは、仁科・高梨・山田の次郎らを五百余騎(の軍勢)とともに向かわせた。一口へは、伯父の志太の三郎先生義教が三百余騎で向かった。(それに対し)東国より攻め上る正面の(軍勢の)大将軍は、蒲の御曹司範頼、(義仲勢の)背後を攻める大将軍は、九郎御曹司義経、(その他の)重だった大名三十余人、(それらの)すべてをあわせてその軍勢は六万余騎をうわまわるといううわさであった。
そのころ頼朝公には、いけずき・するすみという名馬があった。いけずきをば梶原源太景季がなんどとなくいただきたいと願って申したけれど、頼朝公は「(このいけずきは)万一の(非常事態の)場合に、鎧・かぶとに身をかため(馬には)くらやあぶみなどをつけて頼朝が乗るはずにしている馬である。するすみも(いけずきに)劣らない名馬であるぞ。」といって、梶原にはするすみをお与えになった。
(ところでその後)佐々木四郎高綱が(出陣の)おいとまを申しあげるために(頼朝公に)参上した時に、頼朝公はどのようにお思いなさったのであろうか、「(このいけずきを)いただきたいと願っている者はいくらもあるけれども(お前のほかには誰にも与えなかった。そのことを)承知して(受取れ)。」といって、いけずきを佐々木にお与えになった。佐々木が恐縮して申したのには、「高綱はこの(いただいた)御馬で宇治川をば先頭に立って渡るつもりであります。(もし高綱が)宇治川で討死しましたとお聞きなさいましたならば、ほかの人に(高綱が)先陣をうばわれたのだとお思いなさいませ。(もし高綱が)まだ生きているとお聞きなさいましたならば、きっと(高綱が)先陣をしたのに違いないこととお思いなさいませ。」といって(頼朝公)の御前を退出した。その場に参り集まっていた大名・小名らはみな、(この高綱のことばを聞いて)「ぶしつけな申しざまなことだ。」とお互いにささやいたことだった。

【語句】
狼藉・・・乱暴。
をりふし・・・ちょうどその時。
門いで・・・門出。出発すること。
つがふ・・・すべて合わせて。
存知せよ・・・承知せよ。心得ていよ。
かしこまりて・・・恐れつつしんで。
さだめて・・・たしかに。
まかり立つ・・・退出する。





宇治川の先陣(巻第九)~おのおの鎌倉を立つて~

【冒頭部】
おのおの鎌倉を立つて、足柄を経て行くもあり

【現代語訳】
(頼朝の軍勢は)それぞれ鎌倉を出発して、足柄山を通って行くのもあり、箱根山を越えて行くのもあって、思い思いに(京に向かって)上って行くうちに、駿河の国の浮島が原で、梶原源太景季が高い所にさっと上がって、しばらく馬を見てみると、(それぞれが)思い思いのくらを(馬に)置き、さまざまに色美しいしりがいをかけ、ある者は左側の手綱をとって引かせ、またある者は両側の手綱をとって引かせ、(その軍勢はすべて)幾千万騎とも数えられないほどで、(侍たちの馬が次から次へと、手綱をとられて)引いては通り、引いては通りしたその中でも、景季がいただいたするすみにまさっている馬は、ないことだったと、うれしいことに思って見ているところに、いけずきと思われる馬がやって来た。(その馬は)金覆輪のくらを置いて、小ぶさのしりがいを掛け、口から白いあわをはかせて、舎人が何人も付いていたけれども(この勇む馬には)手綱を引いておさえることもできないで、(馬が)躍り勇むにまかせて(つき従って)やってきた。梶原源太は(その馬のそばに)たち寄って、「その馬はどなたのご乗馬だ。」(と尋ねると)、「佐々木殿の御馬であります。」(と言う。)(それを聞いて)その時梶原は、「そのままには捨ておけないことだ。(わが覚悟の気持は)都へ(攻め)上って、木曾殿のご家来のなかで四天王とうわさの高い今井・樋口・楯・禰井と組みあって死ぬか、さもなければ西国へ向かって、一人で千人に相当するといわれる平家の侍たちと、戦って死のうとばかりに思っていたけれども、こんな(頼朝公の)お気持では、そのような忠義だてをしたところでなんのかいもない。(いっそのこと)ここで佐々木にとっ組み、刺し違え、立派な侍二人が死んで頼朝公に損をお取らせ申そう。」とつぶやいて佐々木のやってくるのを待ちかまえていた。(そうとは知らず)佐々木四郎は何心もない様子で(いけずきとは別の馬に乗ってその馬を)歩ませてやって来た。梶原は、(後から追いついて馬を)並べて組みつこうか、(追い抜いて)正面から馬をぶつけて落とそうかと思っていたが、(ともかく)まず言葉をかけた。「なんと佐々木殿、いけずきをいただいていらっしゃいますね。」と言ったところ、佐々木は「ああ、この人もひそかに(いけずきを頂きたいと)願っていたと聞いていたな。」と、とっさに(頼朝公のおことばを)思い出し、「それですから、(いけずきをともなっている次第です。もっともこれには事情があります。)今度の合戦で(京に)上りますが、きっと義仲方は宇治と瀬田の橋をば(橋板を)はずしているでしょう、(それには)乗って川を渡ることのできる馬がない、(いっそ)いけずきを所望なされたのにもお許しがないとうかがいましたので、まして高綱が願ったとしても、まさか下さることはないだろうと思いこみ、のちのちにはどのようなお叱りもあるならあれ(その時はその時よ)と思いまして、明け方に出発しようというその前後に、舎人としめしあわせて、あのようにとくに大事になさっていらっしゃるいけずきを、まんまと盗み取って、(こうして)上りますのはどうです、(驚いたものでしょう。)」と言ったので、梶原はこのことばに(怒りの)腹もおさまって、「ちくしょう。それでは景季も盗めばよかったなあ。」と言って、どっと笑って立ち去った。
佐々木四郎がいただいた御馬は、黒栗毛の馬で、かくべつ太くたくましくて、馬でも人でもそばに寄せつけないでかみついたので、「生食」と名づけられた。(標準を越えて丈が四尺八寸もあるので)八寸の馬といわれた。梶原がいただいたするすみも、(同様に)格別に太くたくましい馬で、ほんとうの黒色であったので、「磨墨」と名づけられた。どちらも(互いに)劣らない名馬である。

【語句】
色々の・・・さまざまな色の。
数を知らず・・・数えきれない。
やすからぬもの・・・心が穏やかではいられないこと。
御気色・・・お気持ち。ご気分。
せんなし・・・しかたがない。無駄である。
あらばあれ・・・あるならあるでかまわない。
腹がゐて・・・立腹もおさまって。
まことに黒かり・・・本当に黒い。





宇治川の先陣(巻第九)~ころは睦月二十日余りのことなれば~

【冒頭部】
ころは睦月二十日余りのことなれば、比良の高根、志賀の山

【現代語訳】
(その)時節は(旧暦)一月二十日過ぎのことだから、比良の山や志賀の山・長等の山に去年降り積もった雪も消え、谷々の氷もすっかり解けて、(宇治川の)水はちょうど折から水かさを増して、白波をはげしくたてながらあふれ流れ、川瀬のうねりは大きく盛りあがって滝のように(すさまじく)音を立て、逆流する水も(流れが)速かった。夜はもはやほんのりと明けてゆくけれど、霧があたり一帯の川面の濃く立ちこめているので、馬の毛色も鎧の縅の色あいも、はっきりとしない。その時に当たって大将軍の九郎御曹司義経は、(宇治川の)川岸に進みでて、水面をながめやって、家来の者たちの心をためしてみようとお考えになったのだろうか、「どうしようか、(このはげしい増水のさまでは、いっそ)淀か一口へ回るのがよいだろうか、(それとも)水の減るのを待つのがよいだろうか。」とおっしゃると、(その場にいた)畠山(という)そのころはまだ年二十一歳になった(に過ぎない)ものが、進み出て申したのには、「(東国を出立する前から)鎌倉で、たびたびこの宇治川のうわさはあったのであります。思いよりもなさらない海や川が、突然に出現でもいたしましたのなら(やむをえなくもございましょうが)。(もちろんそうではないのですから、いま事新しく躊躇する必要はございません。)この(宇治)川は琵琶湖の流れ出たものですから、いくら待ってもいくら待っても、水が引きはしますまい。(かといってはずした)橋板を、また、だれが(大将軍のために)かけて差しあげるでしょうか。治承の合戦の時に、足利の又太郎忠綱(がこの川を渡ったの)は、鬼神として渡ったか(といえばそうではございません)。(同じ人間の忠綱がやった以上はできないことではないのですから)重忠が川瀬のようすを(川に入って)さぐり申しましょう。」といって、丹治の党を主として、五百余騎がすき間もなく馬のくつばみを並べて、(いままさに川瀬に進もうとして)いるところに、平等院の東北にあたる橘の小島が崎から、武者が二騎、馬をさっと駆けさせてやってきた。一騎は梶原源太景季で(他の)一騎は佐々木四郎高綱である。はたの目にはとくにどうとも見えないけれど、内心では(二人ともお互いに)先陣を心がけていたので、(ともに負けず劣らず馬を駆けさせるが)、梶原は佐々木に一段ほど進んでいた。佐々木四郎が「この(宇治)川は西国一の大河であるぞ。(その川を渡るのに)腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなさい。」と(言うと、そのように)言われて梶原は、そうかも知れないと思ったのだろうか、左右のあぶみを踏んばって(あぶみを馬の腹から少し離し)、手綱を馬のたてがみに投げ、腹帯を解いてしめ直したのだった。その間に佐々木は、さっと駆け抜いて、川へざっとばかりに(馬を)乗り入れた。梶原はだまされたと思ったのだろうか、すぐに続いて(同じように)乗り入れた。(梶原が)「なんと佐々木殿、てがらを立てようと思って失敗なさるな。川の底には(攻め渡るのを防ぐ)大綱が(張って)あるだろう。」と言ったので、佐々木は太刀を抜いて、馬の足にひっかかったなん本もの大綱をぷつぷつと次々に切って(進み)、いけずきという当代一の名馬に乗っていたのだったし、宇治川(の流れが)速いといっても(ものともしないで)、一直線にさっと渡して、向こうの岸に乗り上げた。梶原が乗ったするすみは、川の中ほどから矢の竹を曲げたような曲線形におし流され、はるかの下流から岸に乗り上げた。(やがて)佐々木はあぶみを踏んばって(馬上に)立ちあがり、大声をあげて名のったのには、「宇多天皇より九代めの子孫、佐々木三郎秀義の四男(である)佐々木四郎高綱が、宇治川の先陣(をしとげた)ぞよ。われ(こそふさわしい)と思う人々は、高綱に組んで(戦って)みよや。」といって大声をあげて(馬を)駆けさせ(進む)。畠山は(その後に続いて)五百余騎でただちに(馬を乗り入れ、川を)渡る。向こうの岸から、山田の次郎が射放った矢に、畠山は馬の額を矢竹深く射られて、(馬が)弱ったので川の中から弓を杖について(馬から)おりて立った。岩にくだけ散る波がかぶとの手先にざぶんと押しかかってきたけれど、問題にもしないで、水底をくぐって向こうの岸へ着いたのだった。(岸に)上ろうとするとうしろから何者かがぐいとひっつかんだ。(畠山が)「だれだ。」とたずねると、「重親(です。)」と答える。「なんと大串か。」「そうです。」(と言葉をやりとりする)。大串次郎は、畠山にとっては烏帽子子だった。(重親が)「ひどく流れが速いので馬は押し流されてしまいました。どうしようもなくて(こうしてあなたに)くっつき申し(て参り)ました。」と言うと、「いつもお前たちは、この重忠のような者に助けられるのだろう。」といいながら、大串を引っさげて岸の上へほうり上げた。ほうり上げられ、まっすぐ立って、「武蔵の国の住人、大串の次郎重親が、宇治川を徒歩渡りの先陣だぞ。」と名乗った。敵も味方も、この名乗りを聞いて、声をあわせてどっと笑ったのであった。

【語句】
うち解けて・・・すっかり解けて。
をりふし・・・ちょうどその時。
心を見んと・・・「心を見る」は人の気をひいてみる。ためしてみる。
しろしめさぬ・・・ご存知でおられない。
むねとして・・・中心として。
人目・・・他の見る目。
つと・・・さっと。急に。
やがて・・・ただちに。
いかに・・・おいおい。
をめいて・・・わめいて。
ことともせず・・・平気である。
むずと・・・ぐっと。
力及ばで・・・しかたがないので。





宇治川の先陣(巻第九)~木曾殿は信濃より~

【冒頭部】
木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の美女を見せられたり。

【現代語訳】
木曾殿は信濃(の国を出た時)から、巴・山吹といって、二人の美女をお連れになっていた。(戦いに敗れた義仲は都を逃れ出たが)山吹は病気にかかって都に残った。(二人の)中でも巴は、色白く髪長く、顔かたちは本当に美しかった。(しかも巴は)世にもまれな弓勢強い、剛弓を引くもので、馬に乗っても徒歩であっても、刀やなぎなたなどの武器を持ったら、どんな鬼人にも立ち向かおうという、一人で千人の敵をささえるのどの武者である。この上もない荒馬乗りの名人、どんな険しい所もたくみに馬を駆けおろす名手で、(だから)合戦というと(義仲は巴に)良質の札でつくった鎧を着せ、大太刀や強弓を持たせて、まず(第一)に一方の大将にお向けになられた。(この巴の今までの合戦での)たびたびの手柄には、(だれ一人として)肩を並べる者はいない。それだからこのたび(の敗戦に)も、多くの者どもが敗走したり討たれたりした中で、(最後の)七騎になるまで巴は討たれなかった。木曾は(都を逃れ出て)長坂を越して丹波路へ向かったとも(義経方に)うわさがたった。また、龍花越えにかかって北国へ(落ちのびた)ともうわさされた。けれども(事実は)今井のゆくえを聞き(知り)たいと思って、瀬田の方へ逃げのびて行く間に、今井の四郎兼平も、八百余騎で瀬田を守っていたが、(敵に攻められ)わずかに五十騎ほど(の手勢)にまで討ちなされて、旗を巻かせ、主君の(安否が)気がかりなままに、都へ戻り帰るうちに、大津の打出の浜で(同じく戻り帰ってきた)木曾殿に行き会い申した。(両人は)互いの距離が一町ほど(になった時)からその者とわかって、主君と家来と(互いに)馬を速めて近寄った。

【語句】
木曾殿・・・木曾義仲。
いたはり・・・病気。わずらい。
容顔・・・容貌。顔かたち。
強弓・精兵・・・いずれも弦の張りの強い剛弓、また、それを引く者。
打ち物・・・うち鍛えた武器の意、刀・なぎなたなど。
究竟・・・きわめてすぐれていること。
悪所落とし・・・「悪所」は危険な険しい所。
かかりしかども・・・そのような噂であったけれども真実は。
それと見知って・・・それぞれの相手がだれであるかとわかって。





宇治川の先陣(巻第九)~木曾殿、今井が手を取って~

【冒頭部】
木曾殿、今井が手を取ってのたまひけるは、

【現代語訳】
木曾殿が、今井の手を取っておっしゃったのには、「義仲は、(敵の大軍を切り抜けてやっと落ちのびた)六条河原で(すでに)討死するはずであったのだが、お前の行くえが気がかりなばかりに、多くの敵の中を駆けやぶって、ここまでは逃げのびたのだ。」(すると)今井の四郎が、「おことばはまことにありがたく存じます。兼平も瀬田で討死をいたすつもりでございましたが、(あなた様の)御行くえのほどが気がかりなので、ここまで参ったのでございます。」と申しあげた。木曾殿が「(前世からの)因縁はまだ切れていなかったのだ。この義仲の軍勢は、敵に押し攻められ、山林にちりぢりになって、この近くにも(隠れて)いるだろう。お前が巻かせて持たせている旗を揚げさせよ。」とおっしゃると、今井が旗を高くかかげた。京より逃げのびた軍勢、瀬田より敗走した軍勢の区別なく、今井が(揚げた)旗を見つけて、三百余騎が馬を駆けさせ集まった。木曾殿はおおいに喜んで、「これだけの軍勢があるならば、どうして最後の合戦をしないでいられよう。あそこに密集して見えるのは、だれの軍勢だろうか。」「甲斐の一条の次郎殿とうかがって居ります。」「兵力はどれほどあるのだろう。」「六千余騎ということでございます。」「では、いかにもふさわしい相手だ。どうせ同じく討死するのなら、りっぱな相手とあい戦って、大勢の中で(晴々しく)討死しよう。」とおっしゃって、先頭を切って(敵軍に向かって)進んだことだった。

【語句】
駆け割って・・・敵の軍勢を追い散らし。
駆け合うて・・・互いに馬を駆って戦い争って。
契り・・・仏教思想からいう、前世からの約束事。因縁。





宇治川の先陣(巻第九)~木曾の左馬頭、その日の装束には~

【冒頭部】
木曾の左馬頭、その日の装束には、赤地の錦の直垂に、

【現代語訳】
木曾の左馬頭義仲の、その日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾縅しの鎧を着て、くわ形を打ってあるかぶとをかぶり、いかめしく作ってある大太刀を腰に帯び、石打ちの羽ではいだ矢で、その日の戦いに射て少し使い残っているのをえびらに入れて、頭より高く突き出るように高めに背負い、しげどうの弓を持ち、名高い木曾の鬼葦毛という馬で、いかにもがっちりとしていてたくましいのに、金覆輪のくらを置いて乗っていた。あぶみをふん張って立ちあがり、大声をはりあげて名のったことには、「以前は(人づてに高名を)聞いていただろうが、木曾の冠者(という名を)、今は(実際に目の前に)見るだろう(木曾の冠者を)、(その木曾の冠者である)左馬の頭兼伊予守、朝日将軍源義仲であるぞ。(対するそなたは)甲斐の一条の次郎と聞く。互いによい相手だ。(お前らがまさっているならば)義仲を討ち取って兵衛佐頼朝公に見せよ。」と叫びわめいて馬を駆けさせた。(これを聞いて)一条の次郎は、「ただ今名のったのが大将軍義仲だぞ。討ち残すな、者ども。一人も討ちもらすな、若党ども。討ちとれよ」と言って、大勢の麾下の武士たちの中に(木曾を)取り囲んで、われこそ討ち取ろうとばかりに進んだ。木曾の軍勢三百余騎は、(敵の)六千余騎の中を縦に(つらぬき走り)横に(なぎ倒して通り抜け)・くも手・十文字に駆けちらし、(敵の)後ろへつっとぬけ出てみると、(味方は)五十騎ほどになってしまっていた。そこの敵を破って行くと、土肥の次郎実平が二千余騎で待ち受けている。

【語句】
装束・・・衣服。服装。
打つたる・・・とりつけてある。
はき・・・腰に帯びて。
聞こゆる・・・有名な。
木曾の冠者・・・義仲のこと。
われ射つ取らん・・・自分が討っ取らん。たがいに勇みはやるさま。





宇治川の先陣(巻第九)~それをも破って行くほどに~

【冒頭部】
それをも破って行くほどに、あそこでは四、五百騎、

【現代語訳】
それをうち破って行くと、あちらでは四、五百騎、こちらでは二、三百騎ばかり(といる敵の集団)の中を駆け破り駆け破りして行くうちに、(見方は討たれ減って)主従五騎になってしまった。(その)五騎のうち(になる)まで巴は討死にしなかった。そこで木曾殿は(巴に向かって)、「お前は、女の身であるから、急いで早くどこへなりとも落ちのびて行け。自分は討死しようと覚悟している。もし敵の手にかかるようであるならば、(その恥をかかぬよう)自殺をするつもりだから、(のちに人から)木曾殿の最後の戦いに、女を伴っておられたなどと言われるようなことも、心外なことだ。」とおっしゃったけれども、それでもまだ(巴は)逃げて行こうとしなかったが、たって強く言われなさって、「ああ、りっぱな敵がいればなあ。最後の戦いを(いどみ)して、(木曾殿に)お見せ申しあげよう。」といって(馬の手綱を)控えて(待ちかまえて)いると、武蔵の国に有名な大力の者である、おん田の八郎師重が三十騎ほどの手勢とともにやってきた。巴はその軍勢の中へ駆け入って、おん田の八郎に(馬を)押し並べ、むずと取り組んで引き落とし、自分の乗った馬のくらの前輪におさえつけ、すこしも身動きさせないで、首をねじ切って捨ててしまった。(こうして巴は最後の働きを思いきり果たすと)武具を脱ぎ捨てて東国の方へ落ちのびていった。手塚の太郎は討死した。手塚の別当は逃げのびてしまった。

【語句】
人手にかからば・・・敵の手にかかって殺されるならば。
せんずれば・・・する覚悟でいるから。
具せられ・・・従えなさる。お連れになさる。
よからうかたきがな・・・立派な相手が欲しいものだ。
見せ奉らん・・・お見せ申しあげよう。
控へたる・・・馬をとどめていた。
ちっとも・・・少しも。いささかも。
働かさず・・・身動きさせないで。
物の具・・・武具。よろいかぶと。





宇治川の先陣(巻第九)~今井の四郎が、木曾殿~

【冒頭部】
今井の四郎が、木曾殿、ただ主従二騎になって、

【現代語訳】
今井の四郎と木曾殿は、(ついに)ただ主従の二騎になって、(木曾殿が)おっしゃるには、「ふだんは(身につけても)何とも思われないよろいが、きょうは(力も尽きて)重く感じられることだ。」今井の四郎が(そのことばを受けて)申したのには、「お身体もまだお疲れになってはいらっしゃらないし、御馬も弱ってはおりません。どうして、わずか一両の御着背長を重いとはお思いなさるはずがございましょう。(そのようにお感じになるのは)、味方にご軍勢がございませんので、気落ちがしてそのようにお思いなさるのでございます。兼平一人が従い申している(に過ぎない)とは申せ、他の武者(であるなら)千騎(に当たる)と思いなされませ。(射残した矢がまだ)七、八体ございますから、(それで)しばらく防戦いたしましょう。あそこに見えていますのは、粟津の松原と申します。あの松の中(に隠れ入って)、ご自害なさいませ。」と、申しあげ、馬を進めて行くうちに、また新手の武者が五十騎ほどでやって来た。(兼平が)「あなたは、あの松原へお入りなさい。兼平はこの敵を防ぎましょう。」と申したところ、木曾殿がおっしゃるのには、「義仲は、都で討死をするはずであったが、(それにもかかわらず)ここまで落ちのびて来たのは、お前と同じ所で死のうと思ったためである。別々の所で討たれるよりも、同じ所でこそ討死をもしよう。」といって、馬の鼻を並べて(ともに、いまにも)駆け入ろうとなさったので、今井の四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取りすがって申したのには、「武士たる者は、常日頃どんなに武功がございましょうとも、最後の時に思わぬ失敗をしてしまうと、永久に残る恥辱でございます。お身体はお疲れなさっていらっしゃいます。(われらに従い)続く軍勢はございません。敵に(ただお一人)おし隔てられ、(敵のだれかの)とるにも足りない家来に組みつかれ(馬から)落とされなさって、討たれなされもしましたならば、『あれほど日本国(中)に名声をはせなさった木曾殿をば、だれそれの家来がお討ち申した。』などと(世間で)申すようなことが残念でございます。(どうか何ももうおっしゃらず)ただあの松原へお入り下さい。」と申したので、木曾殿は、「それならば(入ろう)。」とおっしゃって、粟津の松原へ(馬を)駆けさせてお入りなさった。

【語句】
日ごろは・・・ふだんは。
けふは重う・・・気落ちがし、また事実疲れたからである。
名によってか・・・何故に。
御身・・・おからだ。
臆病で・・・気落ちしたことで。
さはおぼしめし候へ・・・そのようにお思いなさるのでございます。
一人候ふとも・・・たとい一人しかおりませんでも。
防ぎ矢・・・敵の攻勢をそらし防ぐために矢を射ること。
打って行く・・・馬を進ませる。
新手・・・まだ戦わないで疲れていない軍勢。
一所で・・・同じ所で。
所々で・・・別々の場所で。
馬の鼻を並べて・・・馬を並べて。
弓矢とり・・・武士。
年ごろ日ごろ・・・平素。ふだん。
高名候へども・・・りっぱな評判がございましても。
不覚し・・・失敗し。
長ききず・・・末代まで続く恥辱。
続く勢・・・われわれの後に続き従う勢。
さばかり・・・あれほど。
それがし・・・だれそれ。
申さんことこそ・・・申したならば、そのことこそ。





宇治川の先陣(巻第九)~今井の四郎ただ一騎~

【冒頭部】
今井の四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、

【現代語訳】
今井の四郎はただ一騎で、(敵の)五十騎ほどの中へ駆け入って、あぶみを踏んばって(馬上に)立ち上がり、大声をあげて名のったのには、「つね日頃は、(わが名を)噂にも聞いていただろう、今は(すぐれた武者であるわが姿を)目に見なされい。(われこそは)木曾殿の御めのと子である今井の四郎兼平で、年は三十三に成り申した。そのような(すぐれた武者である)ものが居るということは、鎌倉殿までもご存知でいらっしゃるであろうぞ。(その)兼平を討って(鎌倉殿に)ご覧に入れよ。」といって、射残してあった八本の矢をつぎつぎとつがえて射る。(敵の)生死のほどは確かでないが、たちまちに敵の八騎を射落とした。(矢を射尽くした)後には、刀を抜いてあちらに(馬を)馳せて戦ったと思うとこちらで戦い、つぎつぎと切って回るが、正面からまともに立ち向かう者はない。多くの敵の武器なども奪ったことだった。(敵は)ただ、「射殺せよ。」と(兼平を)中に取り囲んで、雨が降るように(さかんに)射たけれども、よろいがよいので裏まで(矢が)通らない。(よろいの)すき間を射ないから手傷も受けない。

【語句】
音にも聞きつらん・・・うわさにも聞いているだろう。
御めのと子・・・乳母の子。
生年・・・年齢。
さる者・・・そういう者。
見参に入れよ・・・お目にかけよ。
八筋・・・八本。
死生は知らず・・・矢を射当てられた者が手傷を負った程度であるか死んだのかはわからないが。
やにはに・・・たちまち。
はせ合ひ・・・馬を馳せて敵に向かい戦う。
面を合はする・・・正面から立ち向かう。面と向かって相手となる。
分取り・・・敵の武器などを奪いとること。
射取れや・・・射殺せよ。
裏かかず・・・矢がよろいの裏まで通らない。
あきま・・・よろいの合せ目
手も負はず・・・負傷もしない。





宇治川の先陣(巻第九)~木曾殿はただ一騎~

【冒頭部】
木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けたまふが、

【現代語訳】
(一方)木曾殿は、ただ一騎となって粟津の松原へ駆け入りなさったが、(旧暦)正月二十一日の日暮れごろの(ことで薄暗かった)上に、薄氷が張っていて、(そこに)深い水田があるとも知らないで、馬をさっと乗り入れてしまったので、(深く沈んで)馬の頭も見えなかった。(あぶみで馬の腹を)あおってもあおっても、(鞭でいくら)打っても打っても(馬は)動かない。(木曾殿は)今井の行くえが気がかりなので、ふりあおぎなさった(その)かぶとの内側を、三浦の石田の次郎為久が、追いついて弓をぐっと引きしぼって、ぴゅっぱっと射た。致命傷であるからかぶとの真正面を馬の首に当ててうっ伏しになられたところに、石田の家来二人が来合わせて、とうとう木曾殿の首を取ったのであった。(家来は)太刀の先に(首を)貫ぬき通し、高くさしあげ、大声で、「このつねづね、日本国中に名声高くいらっしゃった木曾殿を、三浦の石田の次郎為久が討ち取り申しあげたことであるぞ。」と名のったので、今井の四郎は(敵と)戦っていたがそれを聞いて、「(木曾殿討たれなされた)今は、だれをかばおうと思って戦いをする必要があろうか。われをご覧下さい、東国の方々。日本一の剛勇の者が自害する手本(を示そう)。」といって、太刀の先を口にくわえ、馬からさかさまに飛び落ち、(太刀に)突き通されて死んだのであった。このようにして(木曾殿と兼平の主従が討死してしまったので)粟津の合戦(というほどの合戦)はなかったのである。

【語句】
入りあひばかり・・・「入りあひ(入相)」は日の没するころ。夕暮れ時。
ことなるに・・・ことであるのにその上に。
深田・・・泥深い田。
馬のかしらも…・・・馬が泥の中に深く沈んで頭までかくれてしまったこと。
あふれども・・・いくらあぶみで障泥を打って馬を急ぎたたせても。「障泥」は馬の両わきに覆い垂らして、泥がはねるのを防ぐもの。
打てども・・・馬を鞭打っても。
働かず・・・動かない。
おぼつかなさに・・・気がかりなので。
痛手・・・致命傷。「深手」ともいう。
落ち合うて・・・来あわせて。
聞こえさせたまひつる・・・名声高くいらっしゃった。
今はたれをかばはんとてか・・・主君義仲のなき今は、戦う何のめあても理由もなくなったということ。
殿ばら・・・かたがた。男たちに対する敬称。
剛の者。・・・剛勇の者。すぐれて強い者。
さてこそ・・・こういうわけで。かくて。





敦盛の最期(巻第九)~いくさ破れにければ~

【冒頭部】
いくさ破れにければ、熊谷の次郎直実

【現代語訳】
(一の谷の)合戦に(平家の軍が)負けたので、熊谷次郎直実は、「平家の貴公子が助け船に乗ろうとして、波打ちぎわの方に逃げなさっているだろう。ああ、立派な大将軍に取り組みたい。」と思って、磯の方へ(馬を)歩ませて行くと、練貫に鶴の模様が刺?してある鎧直垂の上に、萌黄匂におどした鎧を着て、鍬形をつけた甲のひもをしめ、こがね作りの太刀を腰に帯び、切斑の矢を背負い、滋籐の弓を持ち、連銭芦毛の馬に、金覆輪の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖にある船を目ざして海へざっと乗り入れ、五六段ほど泳がせたのを(見かけて)、熊谷は「(沖に向かう)あの武者は、大将軍とお見受け申しあげます。ひきょうにも敵に後をお見せなさることですなあ。お戻りなされ。」と(叫んで)扇をあげて招いたので、(その武者は)招かれて引き返してきた。波打ちぎわにまさに上がろうとする所に、(自分の馬をその武者の馬に)押し並べて、むずととっ組んで、どっと落ち、取りおさえて首を切ろうと甲をぐっと仰向けて見たところ、(その武者は)年十六、七ほどであるが、薄く化粧をしてお歯ぐろを染めている。ちょうど自分の子の小次郎の年齢のほどで顔かたちがまことに美しかったので、(熊谷は)どこに刀を突き通そうとも思われない。(そこで熊谷は)「いったい(あなたは)どのような(ご身分の)お方でいらっしゃいますのか。お名のり下さい、お助け申しあげましょう。」と申すと、「お前はだれだ。」とおたずねなされる。「これというほどの者の数に入る者ではございませんが、武蔵の国の住人である熊谷の次郎直実(です)。」と名のり申しあげた。「それでは、お前に向かっては名乗るまいぞ。お前にためにはよい敵だ。(われが)名のらなくても首を切りとって人にたずねよ。見知っている者があろうぞ。」とおっしゃった。(熊谷は)「ああ(りっぱな)大将軍だなあ。この人を一人討ち取り申したとしても(平家が)負けるはずの戦いに勝つはずのこともない。またお討ち申しあげないとしても(われわれが)勝つはずの戦いに負けることもまさかありはしますまい。小次郎が軽いけがを受けたのをさえ、(親の)直実はつらいことと思うのに、この殿の父は、(わが子が)討たれたと聞いて、どんなにかお歎きなさることだろう。ああ、お助け申しあげたい。」と思って、背後をさっと見たところ、土肥や梶原(の勢)が五十騎ほどで続いてやってきた。熊谷は涙を押えて申したのには、「助け申しあげようとは存じましたけれど、味方の軍勢が雲や霞のように集まっています。とてもお逃げなさることはできないでしょう。他人の手におかけ申すならばそれよりも、同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう。」と申したところ、「ただ早く早く首を取れ。」とおっしゃった。熊谷はあまりにいたわしくて、どこに刀を立てようとも思われないで、目もくらみ心もすっかり失せたように、前後もわからないばかりに思われたけれども、そうしていることもできることではないので、泣く泣く首を切ったのだった。(熊谷は)「ああ、弓矢をとる武士の身ほど情けない者はない。武芸の家に生まれなかったならば、どうしてこのようなつらい思いをするであろう(こんなつらい目にあわなくてすんだのだ)。無情なことにも討ち取り申しあげたことであるよ。」とくりかえし言っては袖を顔におしあてて、さめざめと泣きつくしていた。

【語句】
よからう・・・りっぱな。
組まばや・・・相手にとり組みたい。
目をかけて・・・目がけて。目ざして。
まさなうも・・・ひきょうにも。
そもそも・・・一体。
さては・・・それでは。
目もくれ・・・目もかすんで。
前後不覚・・・しょうたいのないこと。
かきくどき・・・くりかえしぐちを言う。「くどく」はくどくどと言うこと。





敦盛の最期(巻第九)~やや久しうあつて~

【冒頭部】
やや久しうあつて、さてもあるべきならねば

【現代語訳】
ややしばらくして、(熊谷は)そうしているわけにもいかないことだから、(その武者の)鎧直垂を取って首をつつもうとしたところが、錦の袋に入れてある笛をば腰におさしになっていた。「ああいたわしい、この夜明け方に(一の谷の)城内で楽器を奏していらっしゃったのは、この人々でいらっしゃったのだった。現在、味方には東国の軍勢何万騎があるであろうが、戦いの陣へ笛を持つ人はおそらくいないだろう。身分の高い人はやはり風雅なものだなあ。」といって、九郎御曹司義経公のお目かけたところ、これを見る人で涙を流さないということはなかった。
後に聞くところによると、(このお方は)修理大夫経盛の子息で大夫敦盛といい、年齢十七歳になっておられた。このことがあってから、熊谷の仏門の帰依する思いは一層強くなった。例の笛は、祖父の忠盛が笛の名人で鳥羽院よりいただいたものであるということであった。経盛が(それを)譲り伝えて持っておられたのを、敦盛が笛にすぐれた技量をもっておられたので、(伝え受けて)持っておられたとかいうことである。(その笛の)名をば小枝と申した。(音楽のような遊びごとは)狂言綺語の道理(のはかないもの)とはいいながら、(この笛が敦盛によって熊谷を出家させるような)仏道に入り、仏法・仏教をほめたたえる因縁となることは、(まことに)、感慨深いものである。

【語句】
やや・・・だいぶ。よほど。
久しうあつて・・・しばらくたって。
あないとほし・・・ああ気の毒だ。
相伝せ・・・うけつぐ。つたえつぐこと。
やさしかりけり・・・「やさし」は静かで上品な感じ。









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