伊勢物語(初段~二十四段)




春日野の若紫(初段)~むかし、をとこ、うひかうぶりして~

【冒頭部】
むかし、をとこ、うひかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよして

【現代語訳】
昔、ある男が元服をして、奈良のみやこの春日の里に、領地をもっている縁があって、鷹狩に行った。(ところが)その(春日の)里に、たいそう若々しく美しい姉妹が住んでいた。(それを)この男はのぞき見をしてしまった。思いがけなくも、(こんな)さびれた古京に、不似合いな(美しい)様子で住んでいたので、(男は)思わず心がぼうっとしてしまった。(そこで)男は自分の着ていた狩衣の裾を切って、歌を書いてやった。その男はしのぶずりの狩衣を着ていたのであった。
かすが野の・・・春日野に生える若紫草の根ですった狩衣の模様が乱れているように、(若々しく美しいあなた方を思い慕うわたくしの)心は乱れて限り知れません。
と(男は)すぐさま歌を言いやった。(狩衣のしのぶずりの乱れ模様から、心の乱れを詠んだのは)その場にかなった興味深いことと思ったからであろうか。(この歌は)
みちのくの・・・陸奥の忍ぶもじずりの乱れ模様のように、私の心が乱れ始めたのは誰故でもなく、あなたのためなのにまあ。
という歌の心持ち(をとったの)である。昔の人は、このようにいきおいにはやった風雅なしぐさをしたのだった。

【語句】
なまめいたる・・・若々しく美しい様子をしている。
かいまみ・・・物のすきまからちらっとのぞき見をする。
おもほえず・・・思わず。
はしたなくて・・・似つかわしくない状態で。





芥川(六段)~むかし、をとこありけり、女のえ得まじかりけるを~

【冒頭部】
むかし、をとこありけり、女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、

【現代語訳】
昔、(ある一人の)男があった。(ある高貴な)女性で、なかなか自分のものとできそうもない女を、幾年にも及んで、求婚し続けてきたが、やっとのことで(女を)盗み出して、大そう暗い夜に(まぎれて、連れ出して来た。芥川という河のほとりを連れて行くと、(女は)草の上に(きらきらと光る)露が置いてあるのを(見て)、「あの光るのは(一体)何なの」と男に問うのであった。(これから落ちのびて)行く先は(まだ)遠く、夜もふけてしまったので、(そこに)鬼がいる所とも知らないで、その上雷まで大そうひどく鳴り、雨も大変降ってきたので、がらんとした倉(の中)に、女を奥に押し込んで、男は弓(を手に持ち)鏡を背負って(倉の)戸口に(立って女を守って)いた。(男は)早く夜が明けてくれないかなあと(夜通し)思い続け(女を守っ)ておったところが、鬼は早くも(女を)一ロに食ってしまった。(その時、女は)「あれえ」と叫んだけれども、(男は)雷の鳴るさわぎに(女の叫び声を)よく聞けなかった。夜もようやく明けてきたので、(男は倉の中を)見ると、連れて来た女がいない。(男は)じだんだを踏んで泣いたけれども、どうしようもなかった。(そこで、男は次の歌を詠んだ。)
白玉か……(あの光るものは)白玉ですか、何なのかしらと女が尋ねた時、(私は)あれは露(の光)ですと答えて、(あのはかない露のように)消えてしまったらよかったのに。(そうすれば、こんな悲しい思いをしなくてすんだであろう。)これは、二条の后(高子)が、従姉の女御のおそばに、お仕えするといったかっこうで住んでおられたが、(高子の)容貌が全く美しくていらっしゃったので、(業平が、女御のもとから)盗み出して、背負って逃げられたのを、(高子の)兄君の堀河の大臣基経と太郎国経の大納言が、(そのころは)まだ官位もそれほどでなく、(たまたま)宮中に参内される折、ひどく泣いている人があるのを聞きつけて、車を止めて、(妹の高子を)取返されたのであった。それを鬼と言うのであった。二条の后がまだ若くて、ただ人であられた時のことだとか(いう話である)。

【語句】
女のえ得まじかりけるを・・・(ある高貴な)女性でなかなか自分のものにできそうもない(女)を。
年を経て・・・幾年もの間、長い年月を続けて。
よばひわたりけるを・・・求婚し続けてきたが。
からうじて・・・やっとのことで。
盗み出でて・・・盗み出して。
いと暗きに来けり・・・大そう暗い折に連れ出して来た。
率ていきければ・・・引き連れてやってくると。
かれは何ぞ・・・あれは何ですか。
ゆくさき多く・・・これから行く先の道のりが遠い。
鬼ある所とも知らで・・・鬼が住んでいる所とも知らないで。
神さへ・・・雷まで。
あばらなる蔵・・・がらんとして荒れはてたような倉。
戸口に居り・・・戸ロに立って番をしていた。
はや夜も明けなん・・・早く夜が明けてほしい。
ゐたりけるに・・・(女を守って)いたところが。
あなや・・・あれえ。女の悲喝。
え聞かざりけり・・・(男は女の悲鳴を)よく間きとれなかった。
やろやう・・・だんだん。しだいに。
足ずりをして・・・ひどく嘆いてもがくとき足をすり合わせること。
白玉か・・・真珠か。
人の問ひし時・・・あの人(女)が尋ねた時。
消えなましものを・・・消えてしまったらよかったのに。
これは・・・この話は。
二条の后・・・藤原高子。
いとこの女御・・・藤原明子。良房の娘で、文徳天皇の女御、清和天皇の御母。
仕うまつるやうにて・・・(女御に)お仕えするかっこうで。
かたちのいとめでたく・・・容貌が大変美しく。
おはしければ・・・いらっしゃったので。
堀河の大臣・・・藤原基経。
下らふ・・・「らふ()」は年功を積むこと。
内・・・内裏、宮廷
とどめて・・・(牛車を)止めて。
鬼とはいふなりけり・・・鬼と言うのであったよ。
ただにおはしける・・・后ではなく普通の身分であられた。
時とや・・・時とかいうことだ。





東下り(一)(九段)~むかし、をとこありけり。そのをとこ身を~

【冒頭部】
むかし、をとこありけり。そのをとこ身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、

【現代語訳】
昔、(ある一人の)男がおった。その男は、自分の身を(都にあっても)生き甲斐のないものと、思い込んで、(もう、決して)都にはおるまい、東の国の方に住むにふさわしい地を見つけようと(思っ)て(出掛けて)行った。以前から志を同じくする友一、二人とともに(連れ立って)行った。(一行の中誰として、東への)道を知っている者もいないので、迷いあぐんで(下って)行った。(そうこうするうちに、やっと)三河の国の八橋という所に着いた。そこを八橋といったのは、流れ行く河が、蜘蛛の手のように八方に分かれていたので、(それぞれの流れに)八つの橋を渡してあったので八橋というのであった。そこにある沢のまわりの木蔭(のもと)に、(馬から)おりて腰をおろして、(弁当の)乾飯を食べたのであった。(ちようど)その沢に、かきつばた(の花)がとても美しく咲いていた。それを(旅の一行が)見て、(そのうちの)ある人が言うには、「かきつばたという五つの文宇を(それぞれ各)句の上において(折句として)旅愁を(歌に)詠め」と言ったので、(男は次のような歌を)詠んだ。から衣……(常日頃肌に着なれた)唐衣のように、馴れ親しんできた妻が(都に)いるので、はるばると遠くやってきたこの旅が(しみじみと)悲しく思われる。と(みごとに)詠んだので、旅の一行は(食べかけていた)乾飯の上に涙(ぽたぽたと)落としたので、(乾飯は水気を含んで、すっかり)ふやけてしまったのであった。

【語句】
えうなき物・・・要なき者。必要とされない、生き甲斐のない身。
思ひなして・・・自分でそうと思い込んで。
京にはあらじ・・・都には住むまい。
あづまの方・・・東国の方。
住むべき国・・・住むに応しい地、安住の地。
もとより友とする人・・・以前から友としていた人。
まどひいきけり・・・迷い迷いして行った。
水ゆく河の・・・水が流れてゆく河が。
蜘蛛手・・・蜘蛛の八木の脚のように四方に八つに分かれて川が流れている様。
沢・・・地が低くて水と草とがまじっている処。
乾飯・・・干した飯で旅行の折の携帯食料。
かきつばた・・・杜若。
いとおもしろく・・・大変美しく。
旅の心・・・旅愁。
から衣・・・美しく立派な着物
旅をしぞ思ふ・・・旅をしみじみ悲しく思う。
ほとびにけり・・・水分を含んでふやけてしまった。





東下り(二)(九段)~生き行きて駿河の国にいたりぬ~

【冒頭部】
生き行きて駿河の国にいたりぬ。

【現代語訳】
(東の方に)どんどん下って行って駿河の国に着いた。(その)宇津山にまで行って、(これから)自分がはいろうとする(山)道は、ひどく暗く、細い上に、蔦や楓が(うつそうと)茂って、何となく心細く、思いがけないひどい目に遭うことと思っていると、修行者がやって来るのに出あった。(すると修行者が)「(あなたほどのお方が)このような(寂しい)道にどうしておいでになるのですか。」という言葉を聞いて、(はっとして)見ると、(その修行者は、かつて都で)会ったことのある人であったよ。(そこで)都にいるいとしい御方のもとに(やる)というわけで、手紙を書いて、(都に向かう修行者に)託した。(その時、手紙に添えた歌は次のようであった。)
駿河なる……(都を離れて、今)駿河の国にある宇津の山べに来かかっていますが、その山の名の如く(遠く離れているので)現実にも会えないし、(また、せめてもの頼みとしている)夢にまで、あなたに会わないことですよ。(それは、あなたが私のことをすっかり忘れたためだからでしょう。)(また、進んで)富士の山を(仰ぎ)見ると、(今や夏もたけなわの)五月の末(陽暦七月中旬頃)であるのに、雪が真白に降っている。(そこで次の歌を詠んだ。)時知らぬ……時節も心得ない山は、富士の嶺だ。(一体)今をいつだと思って、(あのように)鹿の子模様の斑紋のように雪が降っているのであろうか。(不思議なことだ)
その(富士の)山は、都でたとえてみるならば、比叡山を二十ばかり積み重ねたような高さで、(その山の)形は塩尻のようであった。←ここまでチェック済み

【語句】
行き行きて・・・どんどん進行していく様。
駿河の国・・・今の静岡県。
宇津の山・・・静岡市丸子と岡部町との境にある山で、宇津谷峠とも。
いと暗う細きに・・・ひどく暗く、道が細いうえに。
つたかえでは茂り・・・蔦(つる草)や楓(蛙の手のようなので「かえで」という)が茂り。
すずろなる・・・思いもよらずに、自然にある状態にすすんでいく趣。
修行者会ひたり・・・修行者がやってくるのに出会った。
かかる道・・・このように寂しく荒れ果てた山道。
いかでかいまする・・・どうしていらっしゃるのですか。
見し人なりけり・・・かつて(都で)会った人であったよ。
京に、その人の御もとにとて・・・京にある、いとしいあの人の所に(文をやる)というわけで。
つく・・・託す。ことづける。
駿河なる・・・駿河にある。
五月のつごもりに・・・五月の末であるのに。
時知らぬ・・・時節をわきまえない。
鹿の子まだら・・・鹿の白い斑紋のようなまだら模様。
雪のふるらん・・・雪が降るのであろうか。
ここにたとへば・・・この都の山にたとえれば。
なり・・・姿。かっこう。





東下り(三)(九段)~猶行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に~

【冒頭部】
猶行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。

【現代語訳】
(それから)なおも(束へ東へと)どんどん進んで行って(みると)、武蔵の国と下総の国との境に、とても大きな河があった。その河を隅田河という。その大河の岸辺に、集まり坐って、(来し方を)振り返ってみると、はるばると遠くにやって来たものだなあと(一行の者たちが)たがいに嘆きあっていると(人の気も知らないで)、渡守が、[早く舟に乗れ。(ぐずぐずしていると)日も暮れてしまう。」と(せき立てて)言うので、(仕方なく)舟に乗って(河向こうに)渡ろうとすると、(河を渡ればますます都も遠く離れる気がするので)一行の者たちは、なんとなく悲しい思いにつつまれた、(それは、自分から都を捨てて旅立ったとはいうものの)それぞれ都に(恋しく)思う人がないわけではない。ちょうど都を恋しがっている折も折、白い鳥で、くちばしと脚とが赤い、鴫の大きさ位の(美しい)烏が、流れの上に浮かびながら魚を食べている。都では見かけない鳥なので、一行の者は誰一人として(何鳥か)わからない。
(そこで)渡守に(鳥の名を)尋ねると、(渡守は得意になって)「これが、都鳥なんだよ。(都の人が知らないとはね)」と答えるのを聞いて、(男は、早速と、)名にし負はば……(お前が、まあ)都という(ゆかしい)名前を持っているならば、さあ尋ねもしよう。私のいとしく思っている女は、元気なのか、どうかと。と(思いをこめて)詠んだので、舟中の誰しも、(感極まって)泣いてしまった。

【語句】
猶行き行きて・・・更に東へ東へと進んで。
むれゐて・・・集まり坐って。
思ひやれば・・・(過ぎにし方に)思いを馳せると。
わびあへるに・・・たがいに嘆きあっていると。
渡守・・・渡し舟の船頭。
物わびしくて・・・なんとなく悲しい思いにつつまれて。
京に思ふ人なきにしもあらず・・・都にいとしい人がいないわけではない。
さるをりしも・・・「丁度その時、折も折」の意。
宮こどり・・・都鳥。ユリカモメのこと。
名にし負はば・・・都という名を持っているならば。
いざ事とはむ・・・さあ物を尋ねよう。
ありやなしやと・・・元気であろうかどうであろうか。
よめりければ・・・詠んだので。
舟こぞりて・・・舟中の者みな。





筒井筒(一)(二十三段)~むかし、田舎わたらひしける人の子ども~

【冒頭部】
むかし、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でてあそびけるを、大人になりにければ、

【現代語訳】
昔、田舎まわりの行商をしていた人の子供達が、(共同の)井戸のまわりに出ては(男の子も女の子も仲良く)遊んでいたが、(やがて)年頃になったので、男も女もお互いにはにかみあって(満足にも会わずに)いたけれど、男は是非この女を妻にしようと思った。女はこの男を(夫に)と思いながら(いたので)、親が(適当な人と)結婚させようとしたけれども、(すこしも)耳を傾けようともしないで暮らしていた。そうこうしているうちに、この女の隣の男のところから、次のような歌を詠んできた。筒井つの……(幼いころ)筒井の井戸枠と丈くらべをした私の背丈も(どうやら)井筒を越したようです。あなたと(久しく)会わないでいるうちに。(もうすっかり一人前の男になりましたよ)女は(これに対して、次の歌を)返事した。くらべこし……(あなたと)互いに長さをくらべてきた振分髪も(今や)肩を過ぎるほどになりました。あなた以外に誰が一体この黒髪を結い上げて(一人前の女にして)くれるでしょうか。(それをしてくれるのはあなたのはずです)など、互いに歌をやりとりして、(そのうち)とうとう、かねてからの思いのとおりに、(二人は)結婚したのだった。

【語句】
田舎わたらひ・・・田舎まわりの行商。
恥ぢかはして・・・互いに恥ずかしがって。
この女をこそ得めと思ふ・・・この女を妻にしようと思う。
女はこのをとこをと思ひつつ・・・女はこの男を夫にしようと思いながら(月日を送った)。
親のあはすれども・・・親が結婚させようとしたけれども。
筒井つの井筒・・・筒井戸の井戸枠。
かけし・・・はかりくらべた。
過ぎにけらしな・・・(約束の井筒の高さを)越えてしまったようですよ。
妹見ざるまに・・・あなたと会わないうちに。
くらべこし・・・(あなたと互いに)長さをくらべてきた。
振分髪・・・まん中から左右に振りわけ、肩のあたりでそろえて切る形。
本意のごとく・・・前々からの望みどおりに。
あひにけり・・・結婚してしまった。





筒井筒(二)(二十三段)~さて、年ごろ経るほどに、女、親なく~

【冒頭部】
さて、年ごろ経るほどに、女、親なくたよりなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、

【現代語訳】
それから数年たつうちに、女は親をなくし、(生活の)よるべがなくなったので、(男は)女とともに見すぼらしい状態でおられようかと言って、(行商に出ているうちに)河内国高安郡に(男が)通って行く(女の)家ができたのであった。そうではあったが、この以前からの妻は、(男の行動を)嫉妬する様子もなく、(河内の国へ男を)行かせてやったので、男は(不思議に思って)他に思う男でもあって、このように(素直に)出してくれるのであろうかと疑わしく思って、庭の植込みの中に、身をひそめて河内へいったようなふりをして見ていると、この女は、とても美しく化粧して、物思いがちに外をみつめて、
風吹けば……(風が吹くと沖の白浪が立つという名の)立田山を真夜中に夫は(ただ)一人で越えて行くのであろうか。(無事でありますように。)
と歌をよんだのを聞いて、(男は)この上なく(女を)いとしいと思って、(もう)河内へも通って行かなくなってしまった。

【語句】
さて・・・そして。それから。
年ごろ・・・長い歳月、数年。
女、親なく・・・女は親を失い。
たよりなくなるままに・・・生活のよりどころがなくなったので。
もろともに・・・女といっしょに。
いふかひなくてあらむやはとて・・・見すぼらしい状態でおられようかと言って。
いきかよふ所・・・(男が)通って行く(女の)家。
もとの女・・・前からの女、本の妻。
悪しと思へるけしき・・・嫉妬している様子。
異心・・・他心。他を思う心。
思ひうたがひて・・・疑わしく思って。
前栽・・・前庭の植え込み。
いぬる顔にて・・・(河内の女のもとに)いったようなふりをして。
いとよう仮粧じて・・・とても美しく化粧して。
うちながめて・・・物思いに沈んで。
夜半にや・・・(この)夜中に。
ひとりこゆらむ・・・(伴もなくただ)一人で越えてゆかれるのであろう。
とよみけるをききて・・・声に出して詠じた。
かなし・・・いとしい。かわいい。





筒井筒(三)(二十三段)~まれまれかの高安に来てみれば~

【冒頭部】
まれまれかの高安に来てみれば、はじめこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、

【現代語訳】
(男が)時折、あの高安(の女の所)に来てみると、(女は男と)なれそめた頃は奥ゆかしくとりつくろっていたが、(時が経つにつれて)今は全く気を許して、自分自身でしゃもじを取って、大きな飯椀に盛ったのを見て、いや気がさして通わなくなってしまった。そういうわけであったので、あの(高安の)女は、(男のいる)大和の方を遠く望んで、
君があたり……(あなたが来られない現在せめても)あなたのいらっしゃる方なりともまあ眺めながらおりましょう。(だから)生駒山を雲よ、どうぞかくさないでほしい、(たとえ)雨は降っても。と(切ない胸中を歌に詠んで)外を見ているうちに、やっとのことで大和の男から「(そのうちに)行こう」と言って来た。(女は)喜んで(男を)待っていたが、その度ごとに(立ち寄ることもなく)過ぎてしまったので、(女は)
君来むと……あなたがやってくるといった夜毎に(心待ちしていましたのに立ち寄らず)行かれてしまったので、もうあてにはならないと思いながら(やっぱりあなたを)恋い慕いかけて日を送っています。
と(哀れなことを)詠んだけれど、男は通って来なくなってしまった。

【語句】
心にくく・・・奥ゆかしく。
つくりけれ・・・つくろっていたが。
今はうちとけて・・・(慣れてきた)現在は気を許して。
手づから・・・自分の手で。
いひがひ・・・しゃもじ。
心うがりて・・・いや気がさして。
さりければ・・・そういうわけであったので。
大和の方を見やりて・・・大和の方を遠望して。
見つつを居らむ・・・眺めながらまあ暮らそう。
雲なかくしそ・・・雲よ(生駒山を)かくさないでほしい。
見いだす・・・中から外の方を見やる。
大和人来むといへり・・・大和の男が「(そのうち)行こう」と言った。
たびたび過ぎぬれば・・・(男は河内の方にやってきても)その度に(高安の女のもとに立ち寄らず)行ってしまったので。
君来むといひし・・・あなた(男)がやってこようと言った(夜毎に)。
過ぎぬれば・・・(立ち寄らずに)行ってしまったので。
頼まぬものの・・・あてにしないけれども。
恋ひつつぞふる・・・(あなたを)恋いながら日を送る。
住まず・・・男が通って来なくなったこと。





あづさ弓(二十四段)~むかし、をとこ、片田舎にすみけり~

【冒頭部】
むかし、をとこ、片田舎にすみけり。をとこ、宮仕へしにとて、別れをしみてゆきけるままに、

【現代語訳】
昔、ある男が(さる女と)片田舎に住んでいた。男は宮仕えをするためと言って、(女としばしの)別れを惜しんで(京に)行ったまま、三年も(の長い問)帰って来なかったので、(女は)すっかり待ちくたびれていたところ、とても親切に言い寄ってきた男と、今夜結婚しようと言い交わした(ちょうどその)折、この男が帰ってきたのだった。
男は「この戸を開けて下さい。(私が帰ってきたのだよ)」と戸をたたいたけれど、(女は)開けないで歌だけを詠んで差出した。
あらたまの……三年もの長い間あなたを待ちあぐんで、ちょうど今夜、他の男と結婚することになっているんですよ。
と家の中から言ってやったので、(男は)、
あづさ弓……幾多の年月、私があなたを愛してきたように、今度の相手と仲睦じく暮らしなさいよ。
と言って、立去ろうとしたので、女は、
あづさ弓……あなたが私を愛してくれようとくれまいとかまいません。私は(ただ一途に)あなたに心を寄せてきたのですから。
と言って引き止めたが、男は帰ってしまった。女はひどく悲しくなって、(男の)後を追いかけて行ったけれど、どうしても追いつけないで、清水のある所に倒れ伏してしまった。そこにあった岩に、指の血で次の歌を書きつけた。
あひ思はで……(私がこんなに思っているのに)私を思ってもくれず、離れ去っていく(いとしき)人を引き止められず、(悲しさのあまり)私の身は今にもすっかり消えてしまいそうです。
と書いて、その場所で死んでしまったのだった。

【語句】
片田舎・・・都から遠く離れた地方。
すみけり・・・夫婦として暮らしていた。
宮仕へ・・・宮廷にお仕えする。
三年来ざりければ・・・(男が)三年も帰って来なかったので。
待ちわびたりけるに・・・待ちあぐねていたところ。
いとねむごろにいひける人・・・とても親切に言い寄った人。
今宵あはむ・・・今夜、結婚しよう。
ちぎりたりけるに・・・言い交わして、約束しておったちょうどその時に。
このをとこ・・・宮仕えのため京に出ていった男。
にひまくら・・・結婚の初夜のこと。
いひいたしければ・・・(戸の外に向かって)言いやったので。
わがせしがごと・・・私がしたように。
うるはしみせよ・・・仲睦まじく暮らせ。
去なむとしければ・・・(男は)立ち去ろうとしたので。
梓弓引けど引かねど・・・あなたが私を愛してくれようとくれまいと。
よりにしものを・・・(あなたに心を)寄せてきたのになあ。
しりにたちて・・・後について。
えをひつかで・・・とても追いつけないで。
清水のある所に伏しにけり・・・清水のわく所で倒れ伏してしまった。
そこなりける岩に・・・そこ(清水のある所)にあった岩。
およびの血して・・・指から流れ出る血でもって。
あひ思はで・・・自分だけ思っている一方的な愛のこと。
離れぬる人・・・私から離れた人。
とどめかね・・・止めることができず。
消えはてぬめる・・・死んでしまいそうだ。
いたづらになりにけり・・・空しく死んでしまったのだ。









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