奥の細道

【奥の細道】
松尾芭蕉が元禄時代に著した紀行本。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、松尾芭蕉の著書の中でも最も有名な作品である。作品中には多数の俳句が読み込まれている。芭蕉は弟子の河合曾良を伴って、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川の採荼庵を出発し、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間(約半年)中に東北・北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った。奥の細道では、旧暦8月21日頃大垣に到着するまでが書かれている。





漂泊の思い~月日は百代の過客にして~

【冒頭部】
月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。

【現代語訳】
月日は永遠に旅を続ける旅人(のようなもの)であり、(毎年)去っては来たり、来たっては去ってゆく年も、また旅人(のようなもの)である。舟の上に託して一生を過ごし(ている船頭や)、馬のくつわを取って老年を迎える者(馬子)は、毎日毎日が旅であって、(いわば)旅を自分の住む場所としているのである。(風雅に生涯を過ごした)古人も、旅中で死んだ者が数多くいる。私もいつの年からであったか、ちぎれ雲が風に(吹かれて大空を漂うように、あの雲を見ると旅心を)そそられて、あちこちさまよい歩きたい気持ちがしてならず、海べ(の地方)をさすらい歩き、去年の秋、隅田川のほとりのあばら屋に(もどり)、くもの巣をはらつて(しばらく住んでいるうちに)、やがてその年も暮れ、春になって霞が立ちこめる空を見るにつけても、白川の関を越えてみようと、人の心をそわそわさせる神が身にとり憑いたように心を狂おしくさせ、(旅の神の)道祖神に招かれて(いるような気がして)取るものも手につかない。(そこで)ももひきの破れをつくろい、笠のひもをつけかえ、三里に灸をすえると、(もう)松島の月が(どんなであろうと)まず気にかかり、(これまで)住んでいた家は人に譲り、杉風の別宅に移る際に、草の戸も……(このわびしい草庵も、人が住み替える時節がきた。折から雛祭りの頃とて自分の居た時とは違って、華やかな雛人形なども飾られる家となることだろう。)(とよみ、それを発句とする連句の)面八句を(懐紙にしるし)、庵の柱にかけておいた。

【語句】
百代の過客・・・長い年月のことから「氷遠」の意。
過客・・・旅人の意。
舟の上に生涯を浮かべ・・・船頭として一生涯をすごしの意。
馬の口とらへて老を迎ふる・・・馬の口は馬のくつわ。馬子として旅人や荷物を運んでいるうちに年をとってしまうの意。
古人・・・ここでは芭蕉が日頃尊敬し慕っていた、風雅の道に一生を終った昔の詩人や歌人たちをさす。
いづれの年よりか・・・いつの年からであったろうかの意。
片雲・・・ちぎれ雲。
漂泊の思ひ旅の心。漂泊は、水上を流れただようこと、さまよい歩くことの意。
江上・・・江は大河のことで、ここでは隅田川をさす。上はほとりのこと。
破屋・・・破れかかったあばら屋。
白川の関・・・奥州の入口にあたる関所。
物につきて・・・自分にのりうつって、の意。
道祖神・・・村境や峠・辻・橋のたもとなどに祭られ、外部の悪霊からその地を守る神。塞(さえ)の神・岐(ちまた)の神・道(どう)陸(ろく)の神などともいう。また、この場合のように行路の神、旅の安全を守る神の意にもなる。
三里・・・灸点。灸をすえる場所の名。膝頭の下の外側のややくぼんだ所。
松島・・・当時の目本三景の一つといわれた名勝。
住める方・・・これまで住んでいた所の意。芭蕉庵をさす。
杉風(さんぷう)・・・杉山元雅、通称鯉屋市兵衛の俳号。蕉門十哲の一人。
別墅(べっしょ)・・・別宅、下屋敷などの意。
移るに・・・移る時に、移るにあたっての意。
草の戸・・・草の庵と同じ意。世捨人のかりずまい。芭蕉庵をさす。
庵の柱にかけおく。・・・庵は蕉焦庵をさす。水引で結んで柱にかけておくのがきまりであった。





旅立ち~弥生も末の七日~

【冒頭部】
弥生(やよい)も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて、

【現代語訳】
陰暦三月も下旬の二十七目、明けがたの空は、おぼろにかすんで、月は有明の月で光は薄らいでいるので、(遠く)富士の峰がかすかに見え、(近くは)上野や谷中の桜のこずえが(見えるが、その眺めも)またいつの日に見ることができようかと、心細い気がする。親しい人たちは残らず前の晩から集まって、(けさは一緒に)舟に乗って見送ってくれる。千住という所で舟から上がると、(いよいよ)前途遥かな旅に出るのだという感慨が胸
いっぱいになり、(どうせこの世は夢・幻のようなものと思いつつも、いざ千住の別れ道に立って別れようとすると、その)幻のちまたに、別れの涙を流すことであった。
行く春や……(折から春も過ぎ去ろうとしている。それを借んで鳥は悲しげに啼き、魚の目は涙でうるんでい
ることだ。)
この句を旅の記の書き始めとして、(旅路に出たが、名残りが借まれて)やはり道がはかどらない。人々は道なかに立ちならんで、(私たち二人の)うしろ姿の見える限りはと思って、見送っているのであろう。

【語句】
弥生・・・陰暦三月の異称・陰暦では、一、二、三月が春なので、春の最後の月。
末の七日・・・下旬の七日、つまり二十七日のこと。一月を初・中・末の三つに分けたその「末」の意。
朧々として・・・おぼろにかすんでいるさま。
月は有明にて光をさまれるものから・・・「月は有明月であって、光はすでに薄くなっているものの」の意。
上野・谷中・・・ともに現在は東一鼠都台東区の地名で、古くから桜の名所であった。
花の梢・・・桜の花の咲いている木の枝々(のさき)の意。
またいつかは・・・「またいつ見ることがあろうか」の意。
むつまじきかぎり・・・親しい人々はみな、の意。友人や門人達をさす。
千住・・・東京都足立区千住町。当時は、奥州街道および日光街道の最初の宿場。深川から約十キロの上流である。
前途三干里の思ひ・・・これから行く先の旅路が、はるかに遠いという思い、の意。
幻のちまた・・・幻のようにはかないこの人生での別れ道、の意だが、今、人々と別れようとしていることや、千住の町並の姿などを兼ねた表現でもある。
矢立の初めとして・・・旅行記の書き初めとして、の意。矢立は墨壷に筆人の筒のついた旅行用の筆道具。矢立の初めで旅の日記や旅の句の書き初め、の意になる。





那須野~那須の黒羽といふ所に知る人あれば~

【冒頭部】
那須の黒羽といふ所に知る人あれば、是より野越えにかかりて、直道を行かんとす。

【現代語訳】
那須の黒羽という所に知人があるので、ここから那須野越えにかかって、まっすぐに近道に行くことにする。はるか向こうに、一つの村をみつけて、(それをめあてに)行くうちに、雨が降り出し、日も暮れてしまった。(そこで或る)農夫の家に一夜の宿を借りて、夜が明けると、また野中を歩いて行く。するとそこに、野に放し飼いにしている馬がいる。草を刈っている男に近寄って切願したところ、いなかの百姓男とはいっても、やはり人情を知らないわけではない。
「(さあ)どうしたものかなあ。(案内するわけにもいかないし)そうかといって、この那須野は(道が)四方八方に分かれていて、土地になれない旅人は道をとりちがえるでしょう、それが心配ですから、この馬(に乗って、それ)が止まったところで、馬を追い返して下さい。」と言って、馬を貸してくれました。小さい子供が二人、馬のあとについて走ってくる。その一人は小娘で、名を(聞いてみると)「かさね」という。聞きなれない名が、優美に感じられたので、曾良が、
かさねとは……(「かさね」というのは、花でいうならば、さしずめ女にふさわしい八重撫子の名前であろう)
(とよんだ。)間もなく人家のある村里についたので、(馬を貸りた)駄賃を鞍壷に結びつけて、馬を返してやった。

【語句】
那須・・・今の栃木県那須郡の一帯。那須岳の麓の広野を那須野といい、昔から狩猟の地として名高く。歌枕であった。
黒羽・・・今の那須郡黒羽町。当時は那須七藩の一といわれた大関氏の城下町。
知る人・・・黒羽に出てくる翠桃をさす。
野越え・・・広い野を横ぎって行くこと。
かかりて・・・「仕事にかかる」の場合のように、とりかかって、の意。
直道・・・まっすぐに行く近道。
行かんとす・・・「んとす」で「しようとする」の意。
見かけて・・・見かくは、みとめる、の意だが、ここでは、目ざす。目標にする、などの意を含ませて用いている。
野飼ひの馬・・・野原に放し飼いにしている馬。
嘆き寄れば・・・近寄って嘆願すると、の意。
野夫・・・教養のないいなか者。
いかがすべきや・・・さあどうしたらよいものだろうかなあ、と仕事をやめて案内するわけにもいかない気持ちをあらわしたことば。
うひうひしき・・・ものなれない、経験のない。
あやしうはべれば・・・心配ですので、の意。下に「この馬を貸さん」などが省略されている。俳文的な簡潔な表現である。「あやし」は気がかりだ、の意。
小姫にて・・・「小姫」は小娘。「かさね」という優雅な名をもった子に対する美化の念で「姫」といったのであろう。
かさねとは…の句・・・「かさね」という名から、花びらの「重」なった八重撫子をもってきたのである。
やがて・・・すぐに、間もなく、の意。
あたひ・・・価、で馬の借り賃。
鞍つぼ・・・馬の鞍の、人のまたがる低くなった部分。
馬を返しぬ・・・馬の習性として、よく道を知って、もといた所に帰るのである。





白川の関~心もとなき目かず重なるまま~

【冒頭部】
心もとなき日かず重なるまま白川の関にかかりて、旅心定まりぬ。

【現代語訳】
落ち着かない(旅の)日数が重なるうちに、白河の関にさしかかって、(やっと)旅に徹する気持ちになった。(昔、平兼盛がここまで来て)「いかで都へ(なんとかして都へ知らせたい)」と(詠んで)幸便を求めたのも、もっともなことである。(数ある関所の)中でも、この白河の関は、(奥羽)三関の一つであって、風雅にうちこむ人々が心を寄せて(詩歌を詠んで)いる。(能因法師の詠んだ)秋風を今も耳に響くように感じ、(源頼政の詠んだ)紅葉の姿を眼前に思い浮べながら、(今目の前に見る)青葉の梢は、やはり情趣深いものがある。(今は)卯の花がまっ白に(咲いているところに)白いいばらの花が咲き添うて、まるで雪の中を越えて行く気持ちがする。昔の人(竹田太夫国行)が(この関を越えるとき)冠をきちんとかぶり直し、衣服を(晴着に)着かえたことなどが、藤原清輔の書きもの(袋草子)にも残されているということだ。
卯の花を……(古人はこの関を越すとき晴着で通ったとのことだが、私にはそんな用意もないので、せめて今
を盛りに咲いている卯の花を手にかざし、それを晴着として関を越すことにしよう。)

【語句】
心もとなき・・・不安な。落ち着かない。心もとなし、には、待ち遠しい。じれったい、の意もあるが、ここはその意味ではない。
重なるままに ・・・ままに、は…するうちに、の意。
白川の関・・・上古、蝦夷を防ぐために奥州の入口に設けられた関所で、歌枕としても有名。
旅心定まりぬ・・・旅の気持になりきった、の意。
便り・・・ついで、便宜、機会、の意。手紙などと訳さないこと。
ことわりなり・・・もっともである。
中にも・・・数ある関所の中でも。
三関・・・ここでは奥州の三関をさす。白河の関・勿来(なこそ)の関(今の福島・茨城の県境)・念(ね)珠(ず)が関(今の山形・新潟の県境)で、それぞれ奥州へ入るための中央・東・西の関門にあたる。
一にして・・・一つであって、の意。第一であって、の意ではない。
風騒の人・・・風雅の道にたずさわる詩人や文人のこと。「風」も「騒」も詩の意。
心をとどむ・・・心をよせて詩歌を残す、の意。とどむ、は関、の縁語。
秋風を耳に残し・・・能因法師が歌に詠んだ秋風の音が、今も耳に聞えてくるようであり、の意。
紅葉を俤にして・・・源頼政が歌に詠んだ紅葉の姿を目の前に思い浮かべて、の意。
卯の花・・・うつぎの花。ニメートルほどの高さにのびて野山に自生し、また垣根などに植える。
茨の花・・・野ばらの花。初夏、白い五弁の花をつける。
古人冠を正し・・・昔、竹田太夫国行が陸奥へ下り、白河の関を通る際、能因法師が「秋風ぞ吹く」の名歌を残した所であるからと、敬意を表し、正装して通つたという故事が、藤原清輔の『袋草子』巻三にある。そのことをさす。
清輔の筆・・・清輔は、藤原清輔。平安末期の歌人・歌学者。『袋早子』『奥儀抄』などの著がある。「筆」は、書いたもの、書物、の意で、ここでは『袋草子』をさす。





平泉~三代の栄耀一睡の中にして~

【冒頭部】
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。

【現代語訳】
(藤原)三代の栄華も、一睡の夢の間(にはかなく消え去るもの)であって、(昔の)表門の跡は一里ほど手前に残っている。秀衡の(館の)跡は田や野原となってしまって、金鶏山ばかりが(昔の)形をとどめている。まず高館にのぼると、(目の前を流れる)北上川は、(遠く)南部地方から流れて来る大河である(のが見わたされる)。衣川は和泉が城をとりまくように流れ、(この)高館の下で北上川に流れ込んでいる。泰衡等の(いた屋敷の)古い跡は、衣が関を前に置いて、南部方面からの入□をしっかりと固め、蝦夷(の侵人)を防いだものと見てとれる。それにしても、えりすぐった忠義の武士たちが、(この高館に)たてこもり、(奮戦したのだが、その)手柄もただ一時の(夢と消えて、今では一面の)草むらとなってしまっている。「国は荒廃しても山河だけは昔に変らず残り、廃虚となった城にも春がくると、草木だけは昔通りに青々としている」と(いう杜甫の詩を想い出して)、笠を横に置いて腰をおろし、時のたつのも忘れて、(懐旧の)涙を流したことであった。
夏草や……(この高館は今夏草が花々と生い茂っているが、ここは昔、義経の一党や藤原氏の一族が、功名と栄華を夢みた跡なのだ。)卯の花に……(夏草の中に咲き乱れている卯の花を見ていると、白髪をふり乱して奮戦した増尾十郎兼房の姿が目の前に浮んで来るような気がするよ。)前から話にきいて驚いていた二堂が開帳された。経堂は(藤原)三代の将軍の像を残しており、光堂はそれら三代の棺を納め、弥陀三尊の像を安置している。七宝も(今では)散り失せ、珠玉を飾った扉は風に(曝(さら)され)破れ、金箔を押した柱は霜や雪で朽廃して、今はもうくずれ廃れて何もない草むらとなってしまうはずだったのに、堂の四面を新しく囲み、上から屋根瓦を葺(ふ)いて、風雨を防いでいる。(こうして)しばらくの間は、遠い昔をしのぶ記念物とはなっているのである。
五月雨の……(この光堂は昔の姿をとどめて燦然(さんぜん)と輝いているが、ながい年月の間、五月雨もさすがにこの堂だけは降り残したからでもあろうか。)

【語句】
三代の栄耀・・・藤原清衡・基衡・秀衡の三代にわたり、この一族が華やかに栄えたこと。
一睡の中・・・一眠りの短い間。
大門・・・城郭や寺などの総門(表門)をいう。
秀衡が跡・・・秀衡の居館、伽羅の御所の跡。
金鶏山・・・黍衡の館の西北にある。秀衡が平泉の鎮護として作らせた金の鶏の雌雄二羽を、埋めさせた山。形を富士に模して築いた高さ数十丈の山である。
高館・・・衣川館・判官館ともいう。秀衡を頼って平泉へ落ちのびた義経の居館。
北上川・・・岩手県の中央部を南流して、石の巻で仙台湾に注ぐ大河。
南部・・・南部藩の領地。今の岩手県盛岡市を中心とする地方。
衣川・・・平泉の北を束流し、高館の北で北上川に合流する。北上川の支流。
和泉が城・・・秀衡の三男、和泉三郎忠衡の居城。
泰衡等が旧跡・・・泰衡は秀衡の次男。
隔てて・・・はさんでとも、前に置いてとも、隔てとしてとしとれる。
南部口・・・南部地方から平泉地区へ入る南部街道の関門。
夷・・・東北地方に住して、朝廷に帰服しなかった辺民をひろくさす。必ずしも今のアイヌ族の祖先とは限らない。
見えたり・・・ここでは存在(……している)の意。
さても・・・「それにしてもまあ」といった軽い詠嘆の気持も含まれている。
義臣・・・忠義の家来。ここでは義経に最終までつくした弁慶・兼房等をさす。
この城・・・高館をさす。
貧雷回みたり・・・草が青く萌えているの意。
時のうつるまで・・・長い間。相当時間がたつまで。うつるは時が経過するの意。
夏草や・・の句・・・高館にのぼってみると夏早がぼうぼうと茂つている。ここは昔、兵どもが功名を立てようと夢み、栄華の夢がはかなく消えた跡である。自然の悠久に比して、人間のしわざはまことにはかないものだ、という意昧。
卯の花に・・の句・・・折から咲き乱れている卯の花を見ると、白髪をふりみだして奮職した肱房の而影が、眼前に劈髭として、哀れを催すことである、の意。
耳驚かしたる・・・うわさに聞いて驚いていた。
二堂・・・中尊寺境内の経堂と光堂。
開帳・・・厨子の扉を開いて中の秘仏を人々に拝ませること。
経堂・・・一切経(三部七千余巻)を納めてある堂。
三将の像・・・清衡・基衡・秀衡の像のこと。
光堂・・・金色堂のこと。
三代の棺・・・清衡以下三将の遺体を入れたお棺。遺体はミイラとなって現存する。
三尊の仏・・・阿弥陀三尊のこと。中央に阿弥陀如来。右に観世音菩薩。左に勢至菩薩を安置する。
七宝・・・仏教でいう七種の宝物。
珠の扉・・・珠玉をちりばめた扉。
金の柱・・・金箔を押した柱。
既に・・・もうとっくに。あやうく。
頚廃空虚の叢・・・朽廃して、あとかたもなくなった草むら。
なるべきを・・・なるはずであるのに、の意。
四面新たに囲みて・・・正応元年(一二八八)、鎌倉七代将軍惟康親王が、平貞時・同宣時に命じて、金色堂保存のため套堂(さやどう)を作らせたことをさす。
蓋・・・屋根がわら。
暫時・・・しばらくのことながら、の意。
千歳の記念・・・千年の昔の面影をのこすもの、の意。
降りのこしてや・・・降りのこしてやかくあるらむの意。風雪にたえた光堂に対する賛嘆の意をこめた句。





立石寺~山形領に立石寺といふ山寺あり~

【冒頭部】
山形領に立石寺(りゅうしゃくじ)といふ山寺あり。

【現代語訳】
山形藩の領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師が開かれた寺で、格別、清らかでもの静かな所である。一度行って見るがよいと人々がすすめるので、尾花沢から引き返して(山寺へむかったが)、その間は七里ばかりである。(着いたときは)日はまだ暮れていない。(そこで)麓の宿坊に宿を借りておいて、山上の堂にのぼる。岩の上に巌が重なりあって山となっており、松や檜の類は多くの(樹)齢を経て、土や石も時代がついて苔が滑らかにおおい、岩上に建てられた諸堂はみな扉をとざして、物音一つ聞こえない。崖のふちを回り、岩の上をはうようにして仏堂に詣でたが、(全山をつつむ)すばらしい景色は、ひっそりと静まりかえっていて、ただただ心が澄み通って行くように思われた。(その折の句)
閑かさや……(全山をつつむひっそりとした静寂さよ。その中で鳴く蝉の声は、このしずけさを通して、あたりの古びた岩にしみ入るように感じられる。)

【語句】
山形領・・・山形藩の領内。
慈覚大師・・・法名円仁。平安時代の高僧。
開基・・・寺院を創設すること。
清閑・・・清浄で閑寂の意。
一見すべきよし・・・一度見ておいた方がよいこと、の意。
すすむるによって・・・勧めるので。
とって返し・・・道を引き返し。
坊・・・宿坊をさす。一般の参詣人を泊める建物。
岩に巌を重ねて山とし・・・大小さまざまな岩が重なり合って山ができあがっている形容。
松柏・・・「柏」はカシワというよりも、ヒノキ・カヤなどの常緑樹の総称。
岩上の院々・・・山頂までの途中、岩の上に立っている多くの寺院。
岸・・・岩のきわ。がけ。
仏閣・・・仏堂、寺院の意。
寂寞として・・・寂しくひっそりとして。
すみ行くのみ覚ゆ・・・ただもう、ひたすらの意。
閑かさや・・・全山のひっそり静まりかえったさまを印象的に心にとめた表現。





最上川~最上川はみちのくより出でて~

【冒頭部】
最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。

【現代語訳】
最上川はみちのくから流れ出て、山形あたりを上流としている。碁点・隼といったおそろしい難所がある。(それから川は)板敷山の北側を流れ、最後は酒田の海に注いでいる。川の両岸は山が覆いかぶさるように迫り、樹木の茂っている中に船を下すのである。この船に稲をつんだのを、「稲舟」というのであろうか。白糸の滝は青葉の間々に(ちらちら見えて)流れ落ちており、仙人堂は川岸に面して立っている。川水は満々とみなぎって(早く)、舟は今にもくつがえりそうである。
五月雨を……(折から降りつづいた五月雨の雨量を一手に集めて、最上川はすさまじい水勢で流れ下っていることだ。)

【語句】
最上川・・・山形県の南部、吾妻(あづま)火山群に源を発し、県の申央を北流、さらに西に流れて日本海に注ぐ。日本三急流の一つ。
みちのく・・・道の奥、の略。盤城・岩代・陸前・陸中・陸奥といった、奥羽地方の東部を総称した。最上川の水源は出羽吾妻山なので、厳密には、みちのくではないが、ここでは漠然とした気持で使っているのであろう。
山形を水上とす・・・山形領を上流としている。支流の須川を本流と思って、こう書いたのであろう。
ごでん・・・碁点。大石田の上流で、河の中に碁石が点在したように岩が並ぶ。最上川三大難所の一つ。
はやぶさ・・・基点と大石田の中間にある三大難所の一つ。隼の飛ぶように水勢が早いところから名づけられたもの。
板敷山・・・今、古口駅・清川駅間の南方にある山。標高六三〇メートル。
酒田・・・今の酒田市。
いな船・・・稲を積んで運ぶ船。
白糸の滝・・・板敷山の北、戸沢村古口付近にある。最上峡四十八滝のうち最も名高い。高さ二百メール。
青葉の隙々に落ちて・・・青葉のあい間あい間に落ちるのが見えて。
仙人堂・・・白糸の滝近く、最上川の北岸にある。





象潟~江山水陸の風光、数を尽くして~

【冒頭部】
江山水陸の風光、数を尽くして、今象潟に方寸を責む。

【現代語訳】
川や山や海や陸の美しい風景を数限りもなく見て来て、今や象潟へと心がせきたてられる。酒田の港から東北の方へ、山を越え、海べをたどり、砂路を歩いて、その間十里ばかり、日ざしもようやく西に傾くころ(着いたが)、潮風が砂を吹き上げ、雨でぼうっとうち姻って、鳥海山も隠れてしまった。うす暗い中を手さぐりするように(見えない雨中の美しい風景を想像するにつけ)、雨もまた一風変っておもしろいとするならば、雨のあとの晴れた景色も(今から)期待される(ほどすばらしいだろう)と、漁夫の苫ぶきの小屋に身体を押しこんで、雨の晴れるのを待った。
その翌朝、空はからりと晴れて、朝日がきらきらとさしのぼる頃に、象潟(の入江)に舟をうかべる。まず能因島に舟をつけて、(能因法師が)三年の間しずかに住んでいた跡を訪ね、(それからその)向こうの岸に舟を(つけて)あがると、「花の上こぐ」と歌に詠まれた桜の老木があって、(今もそのまま)西行法師の記念を残している。入江のほとりに御陵があって、神功皇后のお墓だという。(この)寺を干満珠寺という。(しかし工皇后が)この地に行啓されたということは、まだ聞いたことがない。どうした事なのだろうか。この寺の表座敷に坐って、簾を捲き上げて眺めると、風景はことごとく一眸のうちに見渡され、南の方には鳥海山が天をささえ(るように高くそびえ)、その山影は入江の水面にくっきり映っている。西の方はむやむやの関が道をさえぎって(それから先は見えず)、東の方に堤を築いて秋田に通ずる道が遙かに(つづき)、北の方に日本海が厳とひかえて、(その)波が(入江に)うち入る所を汐越と呼んでいる。入江の縦横は一里ばかりで、その姿は松島に似通っていて、また異った感じである。松島は(美人が)笑っているようで(明るく)、象潟は(美人が)何か恨んでいるようで(暗く沈んだところが)ある。寂しい上に悲しさが加わって、土地のありさまは(美人が)心をなやましているような趣きがある。
象潟や・・・(雨に煙る象潟の風景の中に、むねの花が咲いているが、その花の趣きは、あの薄幸の美人、西施がもの思わしげに眼を閉じている風情を思い出させる。)
汐越や・・・(汐越に鶴が下り立っている。ひたひたと寄せる波に、鶴の足は濡れて、いかにも涼しげな海の光景である。)
象潟や・・・(象潟では折から熊野権現の際礼だが、こんな田舎の海辺では、お祭料理として何をたべるのであろうか。)曾良
蜑の家や・・・(海岸の漁師の家々では、夕方になると、雨戸をもち出し、それに腰をおろして、夕涼みをしている。) 低耳
岩上にみさごの巣があるのを見ての句波越えぬ・・・(波が越えそうもない岩の上にみさごが巣を作っているが、波が岩を越えることがないのと同様に、決して変るまいと固く約束し合って雌雄むつまじく巣をかけているのであろうかなあ。)

【語句】
いさご・・・砂。
頼もしきと・・・たのもしく思われると。
地勢・・・土地のありさま。





市振の関~今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返し~

【冒頭部】
今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて

【現代語訳】
今日は、親知らず子知らず・犬もどり・駒返しなどという北国一番の難所を越えて疲れておりましたので、枕を引き寄せて(早く)寝たところが、襖一重へだてて表の方(の部屋)で、若い女の声(がして、どうやら)二人ばかりいるらしく聞こえる。年とった男の声もまじって、話をしているのを聞くと、(女は)越後の国の新潟という所の遊女であった。伊勢参宮をするというので、この(市振の)関まで男が送って来て、明日は故郷(の新潟)に帰す(この男に持たせてやる)手紙を書いて、とりとめのない伝言などを託しているようである。白波のうち寄せる海辺(の町)に(遊女として)身をさすらえ、漁師の子のようにひどくこの世に落ちぶれて、(客との)定めない(はかない)契り(を結び)、毎日を送っている(わたしたちの前世の業は、どんなに罪深いものであったことかと、話しているのを聞きながら寝込んでしまい、翌朝旅立とうとすると、我々に向かって、「これから先どう行ってよいか見当もつかない道中の心細さで、あまりにも気がかりで悲しうございますので、見え隠れにでも(あなたがたの)お跡について参りとうございます。僧衣をつけていらっしゃる御情として、(どうぞ私達にも)仏様の御慈悲をおめぐみ下さって、仏道に入る縁を結ばせて下さいませ。」と、涙を流して(頼むのである)。「お気の毒なことではありますが、私たちは(途中)あちこちが滞在する所も多い。ただ(同じ方角に行く)人たちの跡について行きなさい。伊勢の神様のお護りで、きっと無事に着くことができましょう。」と言い捨てて宿を出かけながらも、(さすがに)かわいそうな気持がしばらくおさまらないことであったよ。
一家に・・・(同じ屋根の下に、可憐な遊女と、浮世ばなれした僧形の旅人とが一夜をあかすことになった。それは折しも庭前に咲く萩に照らす月といった取り合わせでもあろうか。)
(とよんで)曾良に語ると、(曾良は)それを書きとめておきました。

【語句】
はかなき・・・とりとめのない。ちょっとした。
いかに・・・なんとまあ。
つたなし・・・運が悪い。





敦賀~漸う白根が嶽かくれて、比那が嶽あらはる~

【冒頭部】
漸う白根が嶽かくれて、比那が嶽あらはる。あさむつの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出でにけり。

【現代語訳】
(進むにつれて)だんだん白根が嶽が見えなくなり、(かわって)比那が嶽があらわれてきた。あさむつの橋を渡って(行くと)、玉江の蘆は穂が出てしまっていた。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えると、燧が城(に出)、帰山では初雁の声を聞いて、十四日の夕暮れに、敦賀の港に(着いて)宿をとった。その夜は、月が格別晴れて美しかった。「あすの十五夜もこんなであろうか。」と言うと、「(この)北陸地方の常として、やはり明晩の(天気が)晴れか曇りかは予想できかねます。」と(いう)宿の主人に酒をすすめられて、(それから)気比の明神に夜参りした。(ここは)仲哀天皇をお祭りしてある社である。神社のあたりは神々しく、松の木々の間をもれて月光がさし込んでくる。それで社前の白砂は一面に霜を置いたようである。「その昔、遊行二世の(他阿)上人が、大願を思い立たれたことがあって、御自分で草を刈り、土や石をにない運び、泥地や水たまりを乾かさせたので、(それ以来)参詣に往来するのに苦労がなくなりました。(その)昔のしきたりが、今でも伝わっていて、(代々の遊行上人が)神前に砂をにない運ばれるのです。これを遊行の砂持と申しております。」と宿の主人が話してくれた。
月清し・・・(気比の明神の社前に美しく砂が敷かれて、折から八月十四日の月が、その上を皓々と照らしている。その砂は遊行上人の持ち運ばれた砂と思うと、まことに有難く清らかな感じがすることだ。)
十五日は、宿の主人のことば通り、雨が降った。
名月や・・・(今夜こそ仲秋の名月なのに、折からの雨だ。なるほど北国地方の天気はあてにはならぬものだわい。)

【語句】
はかりがたし・・・予測しにくい。
神さびて・・・神々しくて。





大垣~露通もこのみなとまで出でむかひて~

【冒頭部】
露通もこのみなとまで出でむかひて、美濃の国へと伴なふ。

【現代語訳】
露通もこの敦賀の港まで迎えに出て来て、美濃の国へとつれだって行く。馬(の背)に助けられて、大垣の町へ入ると、曾良も伊勢から来り合わせ、越人も馬を飛ばせて(やってきて)、如行の家にみんなが集まった。前川子や荊口父子をはじめ、親しい人たちが昼となく夜となくたずねてきて、(私の姿を見ては)まるであの世から生きかえった者にでも会うように、(無事を)喜んだり、(疲れを)いたわったりしてくれる。(さて)旅の(疲れからくる)重い気分がまだぬけきらぬうちに、陰暦九月六目になつたので、(近づく)伊勢の御遷宮を拝もうと、また舟に乗つて(旅立つに際し)、
蛤の・…:(蛤の蓋と身がわかれるように、親しい人々と別れて、私は二見を見にいこうとしている。折から季節も秋の終りで、さびしさが一層身にしみて感じられることだ。)

【語句】
露通・・・路通とも書く。八十村氏。
このみなと・・・敦賀の港。
美濃の国・・・今の岐阜県。
駒にたすけられて・・・馬の背に助けられて。馬に乗って。
大垣の庄・・・戸田氏十万石の城下町。今の大垣市。
越人・・・越智氏。蕉門十哲の一人。
如行が家・・・如行は近藤氏。蕉門に入っていた。
前川子・・・津田氏。前川が俳号。蕉門の俳人だが、大垣藩の要職にあったので、「子」と敬称をつけたのであろう。
荊口父子・・・「荊口」は本名宮崎太左衛門。蕉門の俳人で大垣藩士。
蘇生のもの・・・生き返った者、の意。
旅のものうさ・・・単に肉体的な疲れだけではなく、旅の疲れからくる億劫な気持ち。
長月・・・陰暦九月の異称。
伊勢の遷宮・・・伊勢神宮で、二十一年目毎に行う、本殿を改築し、神霊を移す儀式。
また舟にのりて・・・大垣の東を流れる揖斐川(いびがわ)を舟で下った。

PAGE TOP