更級日記




東路の道のはてより(序段)

【冒頭部】
東路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人

【現代語訳】
東海道の果て(である常陸の国)よりも、さらに奥まった田舎(である上総の国)で育った人間(であるこの私)は、どんなにか田舎くさい娘であったことだろうに、どうして(そんなことを)考えるようになったのか、この世の中に物語というものがあるということを聞き、どうにかしてそれを見たいものだとしょっ中思いつづけ、何もすることのない昼の間や宵の家族の集まりなどの折に、姉や継母といったような人々が、その物語、あの物語、(とりわけ)光源氏の物語の内容などを、ところどころ語ってくれるのを聞くと、ますます(その続きを)知りたい気持ちがつのっていったが、(その人々も)私が満足するほどに、そらで思い出して語ってくれることが、どうしてできようか。(私は)じれったくてたまらないので、自分の身のたけと同じ大きさの薬師仏の像を造って(もらって)、手を洗い清めなどして、人の見ていないときにひそかに(仏像のある部屋に)はいっては、「早く(私を)京の都に上らせてくださって、たくさんあると聞いております物語を、ことごとく見せてくださいませ。」と、身を投げ出し、額を(床に)すりつけてお祈り申しあげているうちに、十三歳になった年、(父の任期が満ちて一家は)上京しようということになり、九月三日に門出をして“いまたち”という所に移った。数年来遊びなれた家の内部を、外からすっかり見えすくように取り払い散らかし、大騒ぎをした後、霧が一面にもの寂しく立ちこめている日没の時分に、車に乗ろうとして(家の方に)目をやると、人の見ていないときにお参りをしては額づいて拝んだ薬師仏が立っておられるのを、お見捨て申して去るのが悲しくて、つい、人知れず泣いてしまった。

【語句】
東路・・・都から東国へ通ずる道の意で、東海道をさす。
道のはて・・・東海道の果ての国である常陸の国をさす。
奥つ方・・・奥の方。
思ひつつ・・・思い思いして。思いつづけ。
つれづれなる昼間・・・「つれづれなり」は、語る人もなく、することもなく、手持ちぶさたで心が空虚な状態。
宵居・・・「居」は、家族が室内にすわって談笑すること。
その物語、かの物語・・・「そ」「か」は特定のものをさすのでなく、「いろいろな物語」という程度の意。
光源氏・・・「源氏物語」の主人公の名前だが、ここは「源氏物語」をさす。「光源氏の物語」の略。
あるやう・・・内容。「やう」は「様」。
いとど・・・ますます。いよいよ。「いといと」のつまった語で、「いよいよ」のつまった「いよよ」と同意。
ゆかしさまされど・・・「ゆかし」は何かに心を強く引かれる感じを表す語で、「見たい・聞きたい・知りたい・読みたい・行きたい」などの意。ここは「聞きたい・知りたい」の意。「まさる」は「増大する」意。
いかでかおぼえ語らむ・・・「いかでか……む」は反語表現。「おぼゆ」は「思い出す」の意。
いみじく・・・「いみじ」は善悪ともに、程度が並々でないこと。「いみじく」で、「非常に・たいそう」の意。
心もとなきままに・・・「心もとなし」は心が落ちつかない状態で、「気がかりだ。心配だ。じれったい。待ち遠しい」の意。
薬師仏・・・薬師瑠璃光如来(略して薬師如来)。十二の誓願を発して衆生の苦しみ(特に病気)を癒やし、現世の希望をかなえてくれる仏とされている。
人間・・・人のいない間。
みそかに・・・「みそか」は「ひそか」と同じ。
とく・・・「と(疾)し」は早い意。音便化して「とう」ともなる。
額をつき・・・「ぬか」は額(ひたい)のこと。現代語「ぬかずく」と同じ。
年ごろ・・・「ごろ(比・頃)」は、いくつも重なることを示す接尾語。「日ごろ(いく日も)」「月ごろ(いく月も)」の類語がある。
あらはにこぼち散らして・・・「あらはなり」は、隠すものがなくてむき出しになっている状態をさし、「まる見えだ」の意。そのほか、「はっきりしている。明らかだ。無遠慮だ」などの意でも用いる。「こぼ(毀)つ」は「こわす・破壊する」意。
たち騒ぎて・・・「たち」は意味を強める接頭語。立って騒ぐ意味ではなく、荷物の整理などで大わらわのさま。
車に乗るとて・・・「車に乗らむとして」の意。この車は旅行用の車で、人間が引っぱる手車である。
うち見やりたれば・・・「やる」は「送る」意で、「見やる」は視線を送ること。
見捨て奉る・・・お見捨て申し上げる。「奉る」は薬師仏に敬意を示すための謙譲語。
人知れず・・・下二段の「知る」は「知られる」意。
うち泣かれぬ・・・「うち・・・」で、「思わず~する・つい~する・しないではいられない」の意。





門出~門出したる所は~

【冒頭部】
門出したる所は、めぐりなどもなくて、かりそめの茅屋の

【現代語訳】
門出をして移った所は、まわりの垣などもなく、ほんの仮造りの茅葺きの家で、蔀などもない。(そこで)簾をかけたり、幕などを引いたりし(て、住居らしくし)た。南の方は遥か遠くまで野原の景色が見える。東と西は海が近くて非常にすばらしい眺めである。(また)夕方には霧が一面にたちこめて非常に趣が深いというふうで、私は朝寝などもしないで(早く起き)、あちらこちらを見ては、(やがて)ここをたち去ることになるのをもしみじみと悲しく思っていたが、同じ月の十五日、雨がひどく降って暗い時に国境を出て、下総の国の”いかた”という所に泊った。(私たちのいる)仮小屋も浮いてしまいそうなほどに(激しく)雨が降ったりなどするので、恐ろしくて眠ることもできない。野原の中の岡めいて高くなった所に、ただ木が三本だけ立っている。その日は雨に濡れたいろいろな物を干して乾かし、国で出発し遅れた人々を待つために、そこで一日を過ごした。

【語句】
めぐり・・・家の回りにめぐらしたもので、垣根や塀などをさす。
蔀・・・日光や風雨を防ぐもので、格子の片面に板を張った横戸。上下二枚からなり、下は固定させ、上をつりあげて開閉するように作る。今の雨戸に当たるもの。
簾・・・「すだれ」は”垂れた簾”の意。現代では巻いてあっても「すだれ」というが、古文では物そのものは「す」で、垂らしてあって初めて「すだれ」である。
東・・・「東は古くは「ひむがし」で、「ひんがし」はその音便。これにならって「南」を「みんなみ」ともいう。
おもしろし・・・原義は「面白し」で目の前が明るくなるような、華やかな感じをさす。「趣が深い。すばらしい」の意であるが、主として自然の景色や芸能について用いられる語である。
朝い・・・朝寝。「い」は、寝ること・睡眠を意味する名詞で、後出の「いも寝られず」もこれである。合成名詞として、「安い(安眠)」「うまい(熟睡)」、形容詞「いぎたなし(寝坊だ)」などがある。
かたがた・・・副詞として、「あれやこれや・何やかやと」の意で用いられることもあるが、ここは「あちらこちら」の意の名詞。
雨かきくらし降るに・・・「かきくらす」は「かき暗らす」で、空を暗くする意。雨が激しく降る形容に用いるが、心が悲しみにくれるときに用いることもある。
境・・・国境。上総と下総との境。
下総・・・「下つ総」の略。今の千葉県の北部と茨城県の一部。
庵・・・草や木を結んで作った仮小屋のことだが、一般に草ぶきの仮小屋をいう。僧や隠者の住居をさすことが多いが、旅宿とした小さな家をもさす。「廬」の字も書き、「いほり」ともいう。
浮きぬばかりに・・・「ばかり」は、終止形に接続して「程度(ほど・くらい)」を示す場合と、連体形に接続して「限定(だけ)」を示す場合とがある。ここは「程度」で、「浮いてしまうかと思うほどに」の意。
野中に岡だちたる所・・・「に」は場所を示し、「野の真中で」の意だが、「野の真中の」と訳してよい。「~だつ」は~の状態になることを示す接尾語で、「~めく」意。「野分だつ(秋の台風めいた風が吹く)」「紫だつ(紫色がかる)」等、類語が多い。
国にたち遅れたる人々・・・「に」は場所を示す。「たつ」は「発つ」で「出発する」意。「国」は上総の国をさす。





竹芝寺~今は武蔵の国になりぬ~

【冒頭部】
今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず

【現代語訳】
今はもう武蔵の国になった。格別に趣のある所も見えない。浜辺も砂が白かったりすることもなく、泥のようであり、紫草が生えていると聞いていた武蔵野も、蘆や荻ばかりが高く生えているだけで、(供の者が)馬に乗って弓を持って行く、その弓の先端も見えないほど、高く生い茂っていて、その中をおし分けて行くと、竹芝という寺があった。遠くの方には、“ははそう”などという所の、領主の邸跡の礎石などが残っている。「ここはどういう所か」と(寺の人に)尋ねると、「これは昔、竹芝といった坂です。この国にいたある男を、(国司が)宮中の火焼屋の火をたく衛士として指名し、(朝廷に)さしあげたところ、(その男が)御殿の前の庭を掃きながら、『どうして(私はこんな)つらい目を見るのだろう。私の故郷で、(あっちに)七つ(こっちに)三つと、酒をしこんで据えた酒壷の上にさし渡してある直柄の瓢が、南風が吹くと北になびき、北風が吹けば南になびき、西風が吹けば東になびき、東風が吹けば西になびく―(あのおもしろいさまを)見ることもできないで、このような仕事をしているなんて。』とひとり言をつぶやいていたが、その時、たいそうな御寵愛で育てられていらっしゃった帝の姫君が、ただ一人で御簾のそばにお出ましになり、柱に寄りかかつて御覧になっておられ、この男がこのようにひとり言を言ったのを(聞かれ)、深く心をお動かされになり、いったいどんな瓢が風になびくのだろうかと、見たくてたまらなくお思いになったので、御簾をおし上げて、『そこの男、こちらに寄れ。』とお呼び寄せになったので、(男は)かしこまって勾欄のそばに参上したところ、『(そちが)言ったことを、もう一度私に言って聞かせよ。』と仰せられたので、酒壷のことをもう一ペん繰り返して申し上げると、(姫君は)『私を連れて行って(それを)見せておくれ。(私が)そう言うのにはわけがあるのです。』と仰せられたので、身がすくむほど恐ろしく思ったけれども、そうなるべき前世からの運命であったのだろうか(姫君を)背負い申し上げて(東国に)下ったが、きっと追手がやって来るだろうと思い、その夜、勢多の橋のたもとにこの姫君をお下し申し上げ、その橋板を一桁ほどこわし、そこを飛び越えて、この姫君をお背負いし、七日七夜の日数で武蔵の国に行き着いたのだった。

【語句】
こひぢ・・・「濃泥」で、泥土のこと。「ひぢ」は泥のこと。
紫・・・紫草。この根から染料をとるところから、その色の名ともなった。古くから武蔵野の名物として知られたが、現在はほとんど絶滅している。
蘆、荻・・・「蘆」は「葦」とも書く。「荻」は「萩」と字を誤りやすい。
弓持たる木・・・「持たり」は「持ちたり」のつまってできた語。この部分は「馬に乗りて持たる(弓)の末」と順序を変えて訳してもよい。
領の跡の礎・・・「領」は領主の意。
火焼屋の火たく衛士・・・「火焼屋」は宮中の清涼殿(天子の起居する建物)の前庭にある建物で、ここで衛士が火をたいて夜の警護をする。「衛士」は諸国から徴発されて、宮中の守護に当たる兵士をいう。
御簾・・・清涼殿のすだれ。
などや苦しきめを見るらむ・・・「など」は「どうして・なぜ」の意の副詞。「こんな苦しいめを見るのは、どうしてだろう」の意。
七つ三つ・・・七・三の数に特別な意昧はなく、民謡の調子から生まれた表現。
直柄の瓢・・・瓢をたてに二つ割りにした柄杓。特に柄をつけることをせず、細い方の端を直接つかんで用いることを「直柄」といったもの。「瓢」は瓢箪のことで、「ふくべ」ともいう。
見で・・・見ないで。「で」は「ずて」のつまった語で、打消して下に接続する。
かくてある・・・このようにしている。故郷を離れて、毎日苦しい仕事をしている自分の境遇をさす。
ひとりごち・・・「ひとりごつ」は名詞[ひとりごと]を四段動詞化した語。
帝の御女、いみじうかしづかれ給ふ・・・「いみじうかしづかれ給ふ」は「帝の御女」の説明として、挿人された句だが、「いみじうかしづかれ給ふ、帝の御女」として訳すとよい。「かしづく」は、「大切に育てる・愛育する・世話をする」意。「かしづく」のは「帝」。
いとあはれに・・・文脈上、「いとあはれに」は、「いかなる瓢……ゆかしく」と並列して、「思されければ」にかかっている。「あはれに」は心に深く感じたことを示すが、それを具体的に説明しているのが、「いかなる瓢…ゆかしく」である。
かしこまりて・・・恐れ謹しんで。「かしこまる」は形容詞「かしこし」の動詞化した語。「かしこし」は「おそろしい」が原義で、『かしこき獣』は猛獣をさす。
勾欄のつら・・・「勾欄」は宮殿などの周囲や橋・廊下の両側につけた欄干。「つら」は「ほとり・そば」の意。
いま一かへり・・・「いま」はmoreの意の副詞。「かへり」は「返り」で回数を示す接尾語。
われゐて・・・「我(を)率て」。
さいふやうあり・・・「さ」は「われゐて行きて見せよ」という、姫のことばをさす。「やう」は形式名詞で、「理由・わけ」の意。
かしこくおそろし・・・この「かしこし」は原義通り、「恐ろしい・恐れ多い」の意。超絶的なものに対する畏怖感を表す語で、「おそろし」よりも心理的緊張が強く身がすくむような感じの語。
論なく・・・漢文の「無論」「勿論」を日本語化した語。音便化した「ろなう」という語もある。
勢多の橋・・・滋賀県吉厚市の近郊、琵琶湖から流れ出る勢多川にかけられた橋。「勢多の唐橋」「勢多の長橋」と呼ばれ古くからの名所で、この夕日は「勢多(瀬田)の夕照」として近江八景の一つになっている。
一間・・・「間」は柱と柱との間。
こぼちて・・・「こぼ(毀)つ」は「破壊する・こわす」の意。
かき負ひ奉りて・・・「かき」は接頭語で意味を強める。現代語の「かき消す」などと同じ。
七日七夜といふに・・・「いふ」の後に、「日数」「時」などが省略されている。





竹芝寺~帝、后、御子失せ給ひぬと~

【冒頭部】
帝、后、御子失せ給ひぬと思しまどひ、求め給ふに

【現代語訳】
帝や后は、御子様がいなくなってしまわれたと御心配になり、お捜しになられたところ、「武蔵の国の衛士の男が、非常によい香りのするものを首に引っかけて、飛ぶように逃げて行きました。』と(ある者が)申し出たので、この衛士の男を捜し尋ねたが、(もうその姿はどこにも)なかった。きっと自分の生国に逃げて行っているのであろうと、朝廷から使者が下って追っかけたが、勢多の橋がこわれていて先に進むことができず、三月もかかって武蔵の国に到着して、この男を捜し出したところ、この姫君が朝廷の使者をお召し寄せになり、『私はこうなるべき前世からの宿命であったのでしょうか、この男の家が見たくて、連れて行けと言いつけたので、(この男は私を)連れて来たのです。ここは非常に住み心地よく思われます。この男を御処罰になり、ひどいめにおあわせになるならば、この私はどうなれと(いうのでしょう。)これも前世に、この国に住みつくべき因縁があったのでしよう。早く(都に)帰って、私の言うことを帝に申し上げなさい。』と仰せられたので、(使者は)何とも申し上げることができず、上京して帝に、『これこれの次第でございました。』と奏上したところ、(帝は)「何ともいたし方ない。その男を罰しても、今となっては姫宮を取り戻して都にお帰しすることもできない。竹芝の男に、一代終身の間、武蔵の国を所領させて、年貢や賦役も免じてやることにしよう。」(と仰せられ、)ただ、姫宮に武蔵の国をお預け申し上げるという旨だけのお言葉が下ったので、この男の家を皇居のように造営してお住ませ申し上げた(のだったが、)その家を、姫宮などもおなくなりになったので、寺にしたのを、竹芝寺と呼ぶようになったのだそうです。その姫宮のお産みになった子供達は、(親の領国の名を)そのまま(とって)、武蔵という姓をいただいて、(この地の住人となって)いたということです。このことがあってから、宮中の火焼屋には(男を置かず)女がつめていることになったのだそうです。」と語ってくれた。

【語句】
后・・・天皇の夫人。皇后。音使化して「きさい」ともいい、また「后の宮」とも呼ぶ。
思しまどひ・・・「まどふ」は、「心が乱れる・あわてる・さまよう」などの意で、ここは「心が乱れる・心配する」意。「思す」は「思ふ」の尊敬体で、「思し~」は「~給ふ」とほぼ同意。「~」は心理的な動詞で、「思し嘆く」「思しゆるす」等。ここも「まどひ給ひ」と考えてよい。
かうばしきもの・・・「かうばし」は「かぐはし」の転で、「よいにおいがする」の意。撥(ン)音便化して「かんばし」ともいい、「芳し」の漢字を当てる。
公・・・「おほやけ」は、原義は「大宅」で、大きな家のこと。最も大きな家である皇居の意から、天皇あるいは天皇を中心とする朝廷をさす語となった。
さるべきにやありけむ・・・直訳すれば、「そうなるはず(のこと)だったのだろうか」。人間の運命は前の世から定められているという、仏教思想をふまえたことば。前世からの因縁(「宿世」ともいう)で、こうなる運命にきまっていたのだろうか、という意味。
この男の家ゆかしくて・・・この「ゆかし」は「見たい」意。
ありよくおほゆ・・・「ありよし」は住みよい意。
われはいかであれと・・・下に「いふならむ」などのことばが省略されている。この私にどのように生きよと言われるつもりか、という反問で、姫君が、もはや武蔵の衛士なしには生きられない、という決意を示したことばである。
前の世・・・前世
この国に跡を垂るべき宿世・・・「跡を垂る」は本来、仏が衆生を救うため、仮に別の姿となって世に現われること。この考えから生まれたものに、本地垂述の説があり、日本の神々もその本体(本地)は仏であるとする。たとえば天照大神の本地は大日如来だとするのである。ただし本文では、住みつく意で用いている。やんごとなき皇女が辺鄙な東国に住みつくことを、仏の垂述になぞらえたものである。「宿世」は、前世からの因縁・宿命。
このよし・・・この事情。姫君が衛士とともに東国に住むことは前世からの因縁であり、姫自身それを喜んでいるということをさす。「よし」は「由」で、事情・理由・手段・方法・趣・態度など、いろいろな意昧で用いられる形式名詞。
奏せよ・・・サ変「奏す」は、天皇に奏上すること。
いはむかたなくて・・・相手が皇女なので返すことばもなかったのである。
かくなむありつる・・・「かく」は姫君が衛士の男とともに、武蔵の国に住みたいと願っている事情をさす。使の者は実際には帝に具体的に説明申し上げたのだが、その内容はすでに前に述べられているので語り手が重複を避けて、「かく」と指示語で表現したのである。訳は、「これこれの事情でありました」くらいでよい。
いふかひなし・・・「言ってもしかたがない。どうすることもできない」の意だが、ほかに、「言うだけの価値がない。つまらない」の意でも用いる。
預け取らせて・・・預け与えて。「取らす」は「与ふ」と同意。
公事・・・朝廷に納めるべき租税や労務者を提供する義務をさす。これを免ずるとは、武蔵の国を私有地(荘園)として与えるということである。
預け奉らせ給ふ・・・「奉ら」は「預け」の客体である「宮」に対する、「給ふ」は「預け」の主体である帝に対する敬意を示す表現。敬意を払っているのは、この伝説の語り手である。
よし・・・内容。趣旨。
宣旨・・・天皇の仰せ言。またはそれを書いた文書をもさす。天皇の命令は大きな公的事件では「詔勅」(漢文)が出されるが、小事件や内輪のことだと宣旨として出される。
内裏・・・皇居。宮中。訓読では「うち」と読む語。
やがて・・・「やがて」は、「そのまま」が原義で、これが時間的に用いられると、「すぐに・ただちに」の意となる。現代語の「後になって」の意はないことに注意。ここは原義通りで、「国の名をそのまま(とって)」の意である。
姓・・・家の名。姓。
火焼屋に女はゐるなり・・・「ゐる」は「すわる」意だが、火焼屋に詰めてじっとしている意味。「なり」は前出の「いふなり」と同じく伝聞の用法。





足柄山から駿河へ~まだ暁より足柄を越ゆ~

【冒頭部】
まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中のおそろしげなること

【現代語訳】
まだ夜の明けないうちから、足柄越えにかかった。山の中の(麓以上に)恐ろしげなことは、何とも言いようなのないほどである。(まるで)足の下に雲を踏むような気持ちがする。山の中腹あたりの、木の下の狭い場所に、葵がわずか三本ほど生えているのを(見て)、「人里離れたこんな山中に、よくもまあ生えたものだ。」と、人々は感心していた。水はその山には三個所流れていた。
やっとのことで(足柄山を)越え抜けて、関山に泊った。ここからは駿河の国である。横走の関のそばに、岩壷という所がある。言いようもないほど大きくて、真中に穴のあいた四角な石(があって、そ)の中から湧き出ている水は、この上なく清らかで、冷たかった。
富士の山はこの国にある。私の育った上総の国では、西の方に見えた山である。その山の姿は、全く世に類のない形である。(他の山山とは)比べものにならない(すばらしい)形の山で、紺青を塗ったような(山腹の上)に、雪が四時消える時もなく積もっているので、濃い紺青色の衣の上に白い袙を着ているように見えるが山頂の少し平になった所から、煙が立ち昇っている。夕暮れには火が燃えあがるのも見える。
清見が関は、片一方の側は海であって、関所の建物がたくさんあり、海にまで柵を作ってある。潮煙がいっぱい立っているのであろうか、(海の様子を見ると)清見が関の波も高くなりそうである。眺めはこの上なくすばらしい。田子の浦は浪が高く立っている中を、舟を漕いで渡った。

【語句】
四方なる・・・四角な。
世に見えぬ・・・世に類見えぬ。
あはれ・・・感心する。賞美する。かわいがる。同情する。悲しがる。ここは感心する・賞美する。





継母なりし人は~継母なりし人は~

【冒頭部】
継母なりし人は、宮仕へせしが下りしなれば

【現代語訳】
(私の)継母であった人は、もと宮仕えした人が、(父と東国に)下ったのであるから、予想に反したいろいろなことがあって、父との仲がしっくりいかない様子で、離別してよそに行くと言って、五歳ぐらいの幼児たちなどを連れて、「(あなたの)しみじみとやさしかった心の深さは、いつまでも忘れることはあるまい。」などと言って、梅の木の、軒端近くて、とても大木なのを(指して)、「この梅の花の咲くころには、来ますよ。」と言い残して行ってしまったのを、(私は)心の中に、(継母を)恋しくなつかしく思い続けて、声を抑えて泣いてばかりいて、その年も改まってしまった。早く梅が咲いてほしい。(その折は)来ると言ったのを、そうかしらと(その梅の木を)見守り待っていたが、花もすっかり咲いてしまったけれど、何の音沙汰もない。(私は)思いあぐねて、花を折って(次の歌とともに)送った。
(「梅が咲いたら来ますよ」と言って)あてにさせなさったあのお言葉を、やはりまだ待ち続けていなければならないでしょうか。霜に枯れた梅さえも、春は忘れない(でこんなに美しい花を咲かせた)のになあ。と言ってやったところ、しみじみと心のこもった言葉を書き連ねて、
やはり頼みにしてお待ちなさい。(私は行けないけれど)梅の高くのびた枝は、(古歌にもあるように)約束もしていない思いがけない人まで訪れたりすると言いますから。

【語句】
あはれなりつる心・・・しみじみとやさしかった心。
いつしか・・・早く。
さやある・・・そうであろうか。
目をかけて・・・見守って。
思ひわびて・・・たまらなくなって。
契りおかぬ・・・約束をしていない。





源氏の五十余巻~かくのみ思ひくんじたるを~

【冒頭部】
かくのみ思ひくんじたるを、慰めむと、心苦しがりて

【現代語訳】
このようにただふさぎ込んでばかりいる(私の)心を慰めようと同情してくれて、母は物語などを捜し求めて見せてくださったので、(私の悲しい気持ちは)おかげで自然に慰められていった。「源氏物語」の「若紫の巻」を見て、その続きを読みたく思ったが、(自分で)人に頼むことなどもできはしない。家の誰もまだ都の生活になれない頃なので、見つけることができない。無性に読みたく、もどかしく思われてならないので、「この源氏物語を、一の巻から始めて全部終わりまで見せてくださいませ。」と、心の中で(仏様に)お祈りをした。親が太秦の広隆寺に参寵なさった時にも、ほかのことは言わず、この物語のことをお祈りしてくれるようにお願いし、(親が)寺から出たらすぐにもこの物語を読破してしまおうと思っていたのだが、読むことはできなかった。(期待がはずれて)非常に残念で、嘆かわしくてたまらないでいる頃、田舎から上京して来ている叔母の家を訪ねたところ、「大きくなって、とてもかわいらしくなったわね。」などとなつかしがり、珍しがってくれて、帰る時に、「何をさし上げましようか。実用的なものはありがたくないんでしょ。欲しがっていらっしゃると聞いているものをさし上げましょう。」と言って、源氏物語五十余巻を櫃にはいったまま、(その他)「在中将」「とほぎみ」「せり河」「しらら」「あさうづ」などという、いろいろな物語を袋いっぱい入れ(たのをくださり、それを)もらって帰る時の気持ちは、まさに天にも昇る嬉しさであった。

【語句】
思ひくんじたる・・・「思ひくんず」は、「思ひ屈す」の音便変化。「くんず」は「気がふさぐ・めいる」意。
心苦しがりて・・・「心苦しがる」は形容詞「心苦し」(気の毒だ)の動詞化で、「気の毒がる・同情する」意。
げに・・・「なるほど・ほんとうに」の意。
紫のゆかり・・・「源氏物語」中の「若紫の巻」をさす。
人かたらひなどもえせず・・・「人かたらひ」は「人にかたらふ」こと。「かたらふ(語らふ)」は「語る」の派生語、語り合う意のほか、「仲間に引き入れる・頼む」の意でも用いる。ここは「頼む」意。「え……ず」は「……できない」意。
心もとなく、ゆかしくおぼゆる・・・「心もとなし」は「不安だ・気がかりだ」の意のほか、このように「待ち遠しい・もどかしい」の意で用いることに注意。「ゆかし」は心を強く引きつけられる感じを示す語で、それぞれの場合に応じて「……したい」と訳す語。ここは「読みたい・見たい」の意。
一の巻よりして・・・「し」は代動調で、具体的にいえば「始めて」である。なお「源氏物語」の一の巻は「桐壷(の巻)」である。
ことごと・・・他の事。漢字は「異事」。「こと人」「こと国」など類語が多い。
このこと・・・「この源氏の物語……見せ給へ」という祈願をさす。
申して・・・「申す」は「言ふ」の謙譲語で、下から上に申しあげる意。
いとくちをしく、思ひ嘆かるる・・・「くちをし」は「朽ち惜し」が語原で、物事がだめになった状態を惜しむ気持ちの語。計画や期待がはずれて、がっかりするときに用いる。本文の場合は仏への願が実現せずがっかりすること。
わたいたれば・・・「わたい」は「わたり(渡り)」の音便。「渡る」は「行く」意。
うつくしう生ひなりにけり・・・「うつくし」は現代語と意味の違う古文要語で、「かわいい」の意である。「生ひなる」は「成長する」意。
あはれがり・・・「あはれがる」は「あはれ」を動詞化した語。「しみじみと心を動かす」意で、「感嘆する・愛賞する・同情する・悲しがる」などの意。ここは久しぶりで作者を見てうれしがる気持ちであるから、「なつかしがる」と訳す。
何をか奉らむ・・・「奉る」は「与ふ」の謙譲体。「さしあげる」意。叔母の方が目上であるが、親しみをこめて言うときは、上の者も下の者に敬語を使う。
まめまめしきもの・・・「まめまめし」は「忠実だ・真面目だ」の意もあるが、ここは「実用的だ」の意。「まめ」は「忠実・勤勉」の意で、「あだ」(軽薄・不真面目)の反対である。
ゆかしくし給ふなる・・・「ゆかし」は前出。ここは「手に入れたい・ほしい」の意。「ゆかしくす」は、「ゆかしがる」ともなる。
五十余巻・・・現在に伝えられる「源氏物語」は、五十四巻である。
櫃に入りながら・・・「櫃」は蓋のついた大形の箱で、長櫃・唐櫃などがあり、また鎧を入れる鎧櫃、経文を入れる経櫃などもある。
在中将・・・ここは在五中将在原業平を中心的な主人公とした歌物語、「伊勢物語」(「在五中将の日記」とも呼ばれる)をさすものと考えられる。
とほぎみ、せり河、しらら、あさうづ・・・当時の物語(おそらく短編)であるが、現在は伝わっていない。
一袋・・・「袋にいっぱい」の意。
嬉しさぞいみじきや・・・「いみじ」は程度の並々でないことを表す。





源氏の五十四巻~はしるはしるわづかに見つつ~

【冒頭部】
はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず、

【現代語訳】
(今までは)とびとびに断片的に見てばかりいて、筋もわからず、じれったく思っていた源氏物語を、一の巻から始めて、ただ一人他人のいない所で、几帳の中に身を横たえ、(次々に)引っぱり出しては読んでゆく時の気持ちは、(この楽しさに比べたら)后の位を得ることも物の数ではない(と思うほどであった)。昼は朝から晩まで、夜は目のさめている間中、燈火を近くにともして、この物語を読む以外のことは何一つしないで、自然と(物語の文章を)そらで覚えてしまうようになったことを、すばらしいことと思っていると、(ある夜)夢に、黄色い地の袈裟を着た非常に美しい僧が出て来て、「妙法蓮華経の五の巻を早く習いなさい。」と言ったという夢を見たけれども、(そのことを)人に話すこともせず、(また)法華経を習おうという気も全然起こさず、ただ物語のことばかりで頭をいっぱいにして、私は今は(まだ)あまり美しくないわ、(しかし)盛りになったならば、顔形もすばらしくよくなり、髪の毛もうんと長くなるだろう、(そして)光源氏の(愛人の)夕顔の君や、宇治の大将薫の(愛人の)浮舟の女君のようにきっとなるだろう―と(未来を)夢想していた私の心は、何と言おうか、まことにとりとめなく、あきれはてたものだった。

【語句】
はしるはしる・・・ここは、「とびとびに・断片的に」の意にとるが、他に①大急ぎで②胸をどきどきさせながら」などの説がある。
わづかに見つつ・・・全貌でなく、一部だけを、何回かに分けて見たことをさす。「つつ」は反復で、「ながら」と訳してはいけない。
心も得ず、心もとなく思ふ・・・「心」は「内容・筋」の意。「心もとなし」は全貌を知りたくて心がやきもきする状態で、「もどかしい・じれったい」意。
几帳・・・室内の隔てとする家具。台の上に柱を二本立て、上に横木を渡し、それに帷子を垂らしたもの。柱の高さにより、三尺の几帳、四尺の几帳などの種類があった。
日ぐらし・・・一日中(昼間の時間)。
そらにおぼえうかぶ・・・「おぼえうかぶ」は頭の中に入った文章が、思い出されて浮かんでくることをさす。
いみじきこと・・・作者の幸福の絶頂感を示した語であるから、この「いみじ」は「すばらしい。うれしくてたまらない」などの意。
法華経・・・「妙法連華経」の略。大乗経典の一つで、釈迦の教説中、最も高遠な教えとされる。八巻よりなり、その中の巻五は特に重要視された。
とく・・・「とし(疾し)」は「早い」意。
わろきぞかし・・・この場合は「あまり美しくない」意。
髪もいみじく長く・・・髪の長いことは当時の美人の条件であった。
光の源氏の夕顔・・・光源氏に愛された夕顔の君、の意。夕顔の君は「源氏物語」中の「夕顔」の巻の女主人公で、世を避けて心細く暮らしているが、源氏と知り合って間もなく、はかなく世を去る。
宇治の大将の浮舟の女君・・・「宇治の大将」は源氏の息子、薫大将(実は源氏の妻女三の宮と柏木との間の不義の子)で、源氏の死後の「宇治十帖」の主人公。浮舟は宇治の八宮の姫君の異母妹で、薫のひたむきな愛をしりぞけて、仏門に入る。
まづいとはかなくあさまし・・・この「まづ」は「先に」の意ではなく、「何と言おうか・実に」の意で、「いと」と並用することが多い。「はかなし」は実体がなく空虚な感じを示す語で、ここは「とりとめない・たわいがない・上っ調子だ」の意。「あさまし」は事の意外さに驚きあきれる感じを示す語で、訳は「あきれるばかりだ・驚くべきだ」。ここは作者が現在(この作品を書いている晩年)の立場から反省を加えて、「はかなくあさまし」と言っている。





転生の猫~花の咲き散る折ごとに~

【冒頭部】
花の咲き散る折ごとに、乳母なくなりし折ぞかしとのみ

【現代語訳】
桜の花が咲いては散る頃となるたびに、乳母が死んだ頃だなあとばかり思われてしみじみと悲しい思いになり、(さらにまた)同じ時分におなくなりになった侍従の大納言の姫君の筆蹟を見ては、無性に悲しい気分に沈んでいるのだったが、五月頃、夜が更けるまで起きていて物語を読んでいると、どこから来たとも知らないうちに、猫が非常になごやかな声で鳴いたので、はっとして見ると、たいへんかわいらしい猫がいる。どこから来た猫だろうと思って見ていると、姉が「しっ、静かに。人に知らせてはだめよ。とてもかわいらしい猫だわ。飼いましょう。」と言うと、(猫は)非常に人なつっこいそぶりを示しては、そばに身を横たえた。捜しに来る人があるかも知れないと(心配して)、この猫を(ひそかに)隠して飼っていたが、召使たちのあたりには全然寄りつくこともせず、(私たちの)前にばかりいて、食物もきたならしいものは、顔をよそに向けて食べない。姉と妹の間にまつわりついて(いるのを)おもしろがり、かわいがっているうちに、姉が病気になったことがあったので、(家の中が)ごたごたして、この猫を北面に置きっぱなしにして呼び入れなかったので、やかましく鳴き騒いでいたけれども、それでも、猫は飼い主のそばにいないと寂しがって鳴くものなのだろうと思って(そのままにして)いたところ、病気の姉が目をさまして、「猫はどこにいるの。こちらへ連れて来てちょうだい。」と言うので、「どうして。」と問うと、「夢の中でこの猫が(私の)そばに来て、『私は侍従の大納言の姫君が、かような猫に生まれ変わった身なのです。こうなるべき前世からの因縁が少々あって、この家の中の君が(私のことを)思い出して、しきりになつかしんでくださるので、ほんのしばらくの間ここに来ているのですが、この頃は(賤しい)召使の中におって、たまらなくつらい思いをしているのですよ。』と言って、激しくなく様子は、気品のある美しい人のように思われたのですが、はっと目をさましてみると、この猫の声だったとは、(ただの夢とは思われず、)たまらなく胸をしめつけられるような気がするわ。」とお話になるのを聞くと、(私も)たまらなく切ない気持ちになった。その後はこの猫を北面に出すこともせず、大事にかわいがってやった。(私が)ただ一人で坐っている所に、この猫が向かい合ってうずくまっているので、なでなでして、「侍従の大納言の姫君がいらっしゃいますのね。大納言殿にお知らせ申し上げたいわ。」と言葉をかけると、(猫が私の)顔をじっと見つめたまま、柔和な声で鳴く様子も、気のせいか、一瞬見た目には普通の猫のようではなく、(私の言うことが)わかっているふうで、しんみりとした思いに沈んだことであった。

【語句】
おどろく・・・はっと気づく。
ほかざま・・・ほかの方向。別のところ。
かしがまし・・・やかましい。さわがしい。
あてなり・・・高貴だ。上品だ。優雅だ。
かしづく・・・世話をする。大事に育てる。
うちつけなり・・・突然だ。不意だ。軽々しい。





荻の葉を訪う男~その十三日の夜~

【冒頭部】
その十三日の夜、月いみじく隈なくあかきに、みな人も

【現代語訳】
その月の十三日の夜、家の者が皆寝静まってしまった夜中、月が一点の曇りもなく明るい時に、(姉と二人で)縁側に出て坐って(いると)、姉が空をつくづくと物思いをしながら眺めて、「今すぐ(私が)行くえも知らず飛んでいってしまったなら、(あなたは)どんな気持ちがするかしら。」と尋ねたので、(私が)薄気味悪く思っている様子を見て、(姉は)他のことに話題を転じて笑ったりなどしているうちに、(ふと)耳を傾けると、隣の家の前に、先払いをして来た(貴人の)車が止まって、「荻の葉、荻の葉。」と従者に呼ばせていたが、(中からの)返事はないようであった。(何度繰り返しても返事がないので)呼びあぐねて、たいへん澄んだきれいな笛の音を趣深く響かせながら、(車の主は)去って行った様子である。(私が)
笛の音の・・・(笛の音はまるで秋風にそっくりに聞こえるのに、どうして荻の葉はそよとの響きをもたてないのだろう。―すばらしい笛の音を聞かせる優雅な男の方が訪ねて来たというのに、どうして荻の葉は、「はい」と答えることもしないのだろう。)と言うと、(姉も)「なるほどね。」と言って、次のような歌を詠んだ。
荻の葉の・・・(荻の葉が答えるまで<あきらめずに>吹き寄ることもしないで、あっさり過ぎ去ってしまった笛の音の主こそ、薄情だと思われるよ。)
このように、夜が明けるまでもの思いにふけって時を過ごし、朝になってから二人とも寝たのだった。

【語句】
みな人・・・一同。
なま・・・なんとなく。どことなく。
ことごと・・・ほかのこと・ほかの話題。
ただに・・・むなしく。





鏡のお告げ~母、一尺の鏡を鋳させて~

【冒頭部】
母、一尺の鏡を鋳させて、えゐて参らぬかはりにとて

【現代語訳】
(私の)母は、径一尺の鏡を鋳造させて、(私を)連れてお参りすることのできぬ代わりとして、僧を(代参として)行かせ、初瀬の長谷寺にお参りさせたらしい。「三日の間(寺に)お籠りをして、この娘の将来のさまを(あなたの)夢で見て、知らせて下さい。」などと頼んで、お参りさせたらしい。(使の僧がお参りしている)その期間中は、(母は私にも)精進生活をさせた。この僧が帰って来て、「(いいお告げはおろか)全然夢さえ見ないで(寺から)下ることになってしまっては残念だ、(そんなことになったら)帰京してもお話し申し上げようもないと(思って)、一心こめて礼拝をし経文を読んでから寝たところ、御帳の方から、きちんと端正な装束をなさった、非常にけ高く美しい女の方が、(お宅様から)奉納した鏡を手に下げて(出て来られ)、『この鏡には願文がついていましたか。』とお尋ねになるので、(私は)かしこまって、『(別に)願文とてございませんでした。(ただ)「この鏡を奉納せよ。」というお言いつけでした。』とお答え申し上げると、『(それは)変なことですね。願文がついていなければならないものですのに。』と言い、(続けて)『この鏡を、こちらに写っている姿をご覧なさい。これを見ると何とも言えず悲しくなりますよ。』と言って、さめざめとお泣きになっている御手もとを見てみると、身を臥しころばせて泣き悲しんでいる姿が写っている。(女の方は、)『この姿を見ると、とても悲しくなりますね。(今度は)こちら側をご覧なさい。』と言って、もう一方の面に写っている姿をお見せくださったところ、多くの御簾が青々と(垂れており)、端近くに押し出してある几帳の下から、色とりどりの(女房たちの)衣(の裾)がはみ出していて、梅や桜が咲いている所で鶯が木から木へ移って鳴いている光景を見せて、『これを見ると喜ばしい気持ちになりますね。』とおっしゃった―と、こういう夢を見ました。」と語ったそうである。(しかし私は、それを)聞いても、その夢がどんな意味をもっているのかということさえ、考えてみなかったのであった。

【語句】
清げなり・・・美しい。
うるはし・・・端然としている。整然としている。きちんとしている。
かしこし・・・恐ろしい。恐れ多い。
本意なし・・・不本意だ。残念だ。もの足りない。





宮仕えに出る~十月になりて~

【冒頭部】
十月になりて京にうつろふ。母、尼になりて、

【現代語訳】
十月になって、京(の町中)に移った。母は尼になって、同じ家の中ではあるけれども、別屋に離れて暮らしていた。父は私をすっかり主婦の座につけてしまって、自分は世間との交際もせず、物蔭に隠れように(ひっそりとして)いるのを見るにつけても、頼りなく心細い思いがしていたが、(そのうちにわたしのことを)お聞き知りになった、(ある)縁故のあるお邸から、「何をするということもなく、手持ち無沙汰で心細い生活をしているよりは(こちらへ奉公してはどうか。)」とお召しになったが、昔気質の父親は、宮仕えする人は非常につらい目にあうものだと思っていて、(そのお召しに)応じさせないでいたところ、「当世の人は現に見る通り、どんどん積極的に宮仕えに出ていますよ。宮仕えをしていると、自然と好運にめぐりあうこともあるものです。とにかく、ためしにやってごらんなさい。」と言ってくれる人があって、父はしぶしぶではあったが、(私は)宮仕えに出されることになった。
まず一晩だけ、(御挨拶に)参上した。菊がさねの衣を、色の濃いのと薄いのを八枚ほど重ねた上に、濃い紅色の掻練の袿を着て、(出かけた。)あんなに物語にばかり熱中して、それを読むことの外には、行き来する親類縁者さえも特別になく、昔気質の両親の蔭に隠れてばかりいて、秋の月や春の桜を見る以外に何もすることのない毎日の生活だったので、(初めて)宮仕えに出たときの気持ちは、ぼうっとして無我夢中で、現実のことという感じもないまま、翌日の暁には退出し(て家に帰っ)た。家にばかり引っ込んで、上流の生活を知らない私は、(気楽ではあっても)変化のない平凡な家庭生活を続けるより、(宮仕えをした方が)おもしろいことを見たり聞いたりして、かえって楽しい思いをすることがあるかも知れないと、ときどき考えることがあったのだが、(実際に出仕してみると、)非常に気恥ずかしく、悲しい生活を味わうことになりそうだとわかったけれども、(今さら)どうにもならぬのであった。
十二月になってから、再び参上した。今度はお部屋をいただいて、数日の間、御仕え申し上げた。宮様のところへはときどき(上ったが)、夜も何回か参上して、初めて会った女房たちの間にまじって寝るときは、とろりとまどろむこともできなかった。恥ずかしくて気づまりでならないので、思わず人目をしのんで泣いては、暁にはまだ夜の明けないうちに(自分の部屋に)下がったが、(部屋では、)父は老い衰えて、この私をいとしいわが子として、頼みとなる蔭のように思って頼りとし、(いつも)対い合って坐っていたこととて、一日中、父のことが恋しく、(どうしていることやらと)その身が案じられてならなかった。母親に先立たれた姪たちも、生まれた時から一緒に暮らし、夜は(私の)左右に寝起きしていたことも、しみじみと思い出されたりして、(宮邸では)心も落ち着かず、つい物思いに沈んでぼんやり日を暮らすのであった。(また、部屋の外で)立ち聞きをしたり、隙間からのぞき見をする人の気配がして、たまらなく気づまりな生活であった。

【語句】
うつろふ・・・移動する。
うつつ・・・現実。
なかなか・・・かえって。
はしたなし・・・①中途はんぱだ。②きまりが悪い。③みっともない。④そっけない。ここは②。
しのぶ・・・こらえる。かくれる。
おぼつかなく・・・おぼつかなし。
心もそらに・・・心が落ちつかないさま。





石山寺詣で~今は、昔のよしなし心も~

【冒頭部】
今は、昔のよしなし心もくやしかりけりとのみ思ひ知りはて

【現代語訳】
今では、昔浮ついたことばかり考えていたことも、取り返しのつかぬ(愚かな)ことだったなあと、すっかり夢がさめて、親が寺参りに(私を)連れて行くことなどもしないで終わってしまったことも恨めしく思い出されてならないので、今はただいちずに、富裕な身分になって、幼い子供をも思う存分に世話をして育て上げ、自分自身も倉に積みきれないほどの(財宝を持つ身に)なって、後世(を願う)ことまで考えようと心を励まし、十一月の二十日過ぎに石山寺へお参りをした。雪が盛んに降る続いていて、道の途中(の景色)まで趣があり、逢坂の関を見るにつけても、昔ここを越えたのも冬のことであったなあと思い出されるが、折しも(風は)非常に荒々しく吹いていた。(そこで次のような歌を詠んだ。)
逢坂の・・・(今逢坂の関を吹いている風の音は、その昔ここで聞いた音と少しも変わっていないことだ。)関寺が厳然と造営されているのを見るにつけても、その昔、荒造りの(仏様の)御顔だけが見えた時(のこと)が思い出され、(多くの)年月が過ぎてしまったことも、しみじみと感じられた。打出の浜のあたりなども、(昔)見たのと変わってもいない。(日が)暮れかかる頃に(石山寺に)行き着いて、斎屋に下りて(身を浄めてから)、御堂に上ったが、(あたりには)人の声もせず、山風(の音)が恐ろしく感じられて、仏前のお勤めをしかけたままでうとうとと眠った時の夢の中で、「比叡山の根本中堂から御香をいただいた。早くあそこに知らせなさい。」と言う人があるので、はっと目をさまし、(それで)夢だったのだと知ったのだが、(この夢は)きっとよいお告げであろうと思って、朝までお勤めをして明かした。翌日もひどく雪が降って荒れており、(私と)一緒に(ここへ)来ていらっしゃった、宮様邸で親しくおつきあい申し上げている人とお話をして、心細い気持ちを慰めた。三日間参籠した後、(寺を)退出した。

【語句】
かしづく・・・愛育する。世話をする。
かしこ・・・あそこ。
おどろく・・・気が付く。





後の世の頼み~昔よりよしなき物語~

【冒頭部】
昔よりよしなき物語、歌のことをのみ心にしめで

【現代語訳】
昔から、たわいもない物語や歌ばかりに夢中になっていないで、夜昼心がけて仏道に励んでいたならば、きっとこんな夢のように(はかない)運命にはあわないですんだかも知れない。以前初瀬にお参りした時、「稲荷(の神)からくださった、霊験のある杉だよ。」と(言っ)て投げ出してくださった(夢を見た)のだったが、(あの時初瀬から)退出した足で稲荷神社にお参りしておったならば、こんな(不幸な身と)ならずにすんだのかも知れない。長年にかけて、「天照大神をお祈り申し上げよ。」という夢を見たのは、(高貴な)人の御乳母を勤めて、宮中などに住み、帝や皇后の御恩顧にあずかるような身となる(前兆)だとばかり、夢占いの人も判断したのだったが、そうした(よい)ことは一つもかなえられないで終わってしまった。ただ、鏡に映った悲しげな姿(の夢)だけがその通りに(実現した)ことは、何とも痛切に悲しいことである。ただこのように、何一つ望みのかなうことなしに生涯を過ごしてしまった私のこととて、よい報いを受けるための善根を積むようなこともせず、うかうかと日を送っている。
(このようにいつ死んでも惜しくないような毎日を送っているが、)それでもやはり命というものは、つらい思いのあまり消えはてることもなく、生き長らえてゆくものらしいが、来世も(極楽往生の)願いはかなわないに違いないと、不安であったが、心頼みとすることが一つだけあった。(それは、)天喜三年十月十三日の夜の夢の中で、(私の)住んでいる家の軒先の庭に、阿弥陀仏がお立ちになっておられた。はっきりとはお見えにならず、霧が一重隔てているように(ぼんやりと)透けてお見えになる(御姿)を、(霧の)きれ目から強いて拝見すると、地上から三、四尺の高さ(に浮いている)蓮華の台座(におられる)御仏は、御丈六尺ばかりで、金色に光り輝いておられ、片方の御手は広げたように(され、)もう片方の御手は印を結んでいらっしゃるのを、(私より)ほかの人は拝見することができず、私一人だけが拝見できるのだったが、(尊くありがたいとは思うものの、)非常に恐ろしくて(身がすくむようなので)、簾のそば近くに寄って拝見することもできないでいると、御仏は、「それでは今回は(このまま)帰り、後に(再び)迎えに来よう。」とおっしゃったが、その声は私の耳にだけ聞こえて、ほかの人は聞くことができない―というところまで見て、はっと目がさめてみると、十四日(の朝)であった。この夢ばかりは、後世(を願う)心頼みとした。

【語句】
よしなく・・・つまらない。くだらない。
年ごろ・・・長年。
うしろめたし・・・不安だ。気がかりだ。
せめて・・・むりに。強いて。
異人・・・ほかの人。
おどろく・・・気づく。









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